イスラム教入信のきっかけ
元々外国の文化が好きだった私は、まとまった休みが取れると海外旅行に行っていた。
激務の仕事ばかりで疲弊していたため、あまり日本人に会わなくて済むような国に行っていた。スリランカ、カタール、モロッコ・・・。やはり日本とは全然違う西アジアや中東文化に心が惹かれてきていた。
その中でもドバイのモスクに行ったり、カタールのバス停でアザーン(礼拝の呼びかけ)を聞いたりしたときに心の中に染み込んでいく何かを感じた。もちろんスーク(市場)の異国情緒は私を魅了したし、彼らの衣服などには懐かしさを感じたほどだ。
何より、その国の雰囲気が「肌に合う」としか言いようがない。
今でも日常の食事はアラブ料理が多いし、純粋にアラブ料理が好きで美味しいと感じている。
カタールから日本に戻る飛行機の中ではクルアーンを聞いたし、離れていく半島の景色を見ながら涙が浮かんできた。
そんな私に、とある外資系企業への転職が決まった。
英語は不動産会社で働いていたときに、たびたびかかってくる英語の電話に対応するためにやむなく独学した程度のものしかなかったが、運良くCVも英語面接もクリアできた。
最初は米国系の支社だったが、なぜか中東の支社に欠員が出たので入社してすぐに部署異動となった。
入れ替わりの激しい職場だったので、数年働いていたら管理職になった。
そこではアラブ人やアラブ文化のマイナス面を数多く見てきた。
仕事に対するいい加減さ、トップダウンでルールがコロコロ変わる、不安定で脆弱なITインフラ・・・
英語もとかく聞き取りづらい。
アラブ人とも何人か一緒に働いた。文句ばかりでいい加減な仕事しかしない人が結構な割合でいて、あぁ日本人と働いていたときにはもっと楽だったなぁ。ときどき陰湿な人間関係が面倒だったけどwなんて思ったりした。
ただ、そこでムスリムだった人たちがやっている礼拝に何かを感じたんだよね。
礼拝のときの何ともいえない神聖さ、真剣さ・・・。
いい加減な仕事と性格なのに、どうしてこうも人を惹きつける礼拝なのだろう?イスラム教は日本では偏見が多いので、洗脳されないように構えていた。一緒に働いていたムスリムの同僚に疑問に思ってることや、思い込んでいたクルアーンの内容などについて質問をした。一緒に断食などをしたときもあって、ムスリムの連帯感なんかも味わった。
結局その後結婚することになったので、改宗せずにいたけれど・・・
しかし、結婚生活がうまく行かなくなって精神的に荒れていた時期に、イスラムに救われたことが何回もあった。
(家には神道の札とかを置いておまつりしていたが、どんだけ祈っても何も変化がなくて背信の気持ちがどんどん湧いてきたってのもあるかもしれない。)
気持ちが苦しいときに礼拝をして、サジダをしている瞬間にフッと心が軽くなったり
ハディースやクルアーンの一節に癒やされたり。
神道や仏教にはこういうことはなかったかもしれない。お経を唱えることも、祝詞をよむこともできるけど、日本語なのに外国語のように感じていた。
日本語から遠いアラビア語なのに、どうしてこんなに心に響くんだろう。
離婚後、就職・住居を決めようと思っていた私は宙ぶらりんの時期があった。収入もないし、居所も決まっていない。
そんな私をモスクは癒やしてくれた。
働いていない、何も生産していない価値のない私が居てもいい場所だったから。
ムスリマの人たちに自分の身の上を話すと自分がムスリマになって苦労したときのことを話してくれた。
「親なんかは私を外に出すのを嫌がっていたからね、ヒジャブだから(笑)。駅まで迎えに来ても、すぐに車に乗せられて家の玄関までピッタリ車をつけるの。」
一番胸にささったのは「大丈夫、アッラーはより良いものを用意してくれていますよ」だった。
これはホント、殺し文句。
物事はその一瞬をどう捉えるか、ってだけなんだ。
今は地獄のどん底にいて、いつ光が見えるか分からないけど
きっとこの経験は人生に必要なことで、これから先の出来事のためのきっかけなんだって。
自分はまだ見捨てられていないと希望を持った。
私が自由になった日はちょうどラマダンが終わったあとのイードでイスラム教の祝日だった。
アルハムドリッラー。