見出し画像

【24.12.21】アーティフィカルフィッシュは海を泳ぐ夢を見るか #パルプアドベントカレンダー2024

コマーシャル:本文章はこちらの企画でお送りしています。ジンゴベーッ!グッナイ、メリイ、クリッスマー!!


 春の空のように薄い水色をしたFRP(繊維強化プラスチック)の中で、ゆったりと一匹の生体合成肉素材Pスモールサイズが揺蕩っている。マズルのように伸び先端が特徴的な平たい形をした鼻を、ひくりひくりと動かして、機嫌がよさそうに身を震わせた。
「サワラ」
 名づけた名を呼びながら、ちゃぷんと傍らの水分へ沈め、掬い上げた水を纏った片手でもってそっと頭を撫でれば、ピギ、と高く小さく鳴いた。

一、n年n日前

 ヒサダ老は今年で齢950を迎える。平均年齢200歳時代においても確かに希少な存在であるからこそ、彼には老という二つ名がつけられていた。一般的な活動限界値を大きく超えていても、いまだその存在が在るということは、それはすなわち彼の類稀なる非凡さの証明でもあった。彼という存在が必要だと信じる者たちがいて、だからこそ彼は老人の姿形をとってここに在った。
 ヒサダ老の横には、沙汰を待つ罪人のように固く強張った表情で、ヒサダ老と同じ方向を向いてむっつりと黙り込む一人の青年がいた。灯りは必要最低限しかついていない暗く沈んだ薄闇の部屋の中、ダークスーツを着込んだ彼とヒサダ老は闇に溶け込んでいるようだった。彼らの目の前にいる彼らとは真逆に輝いて見えるほど真っ白な板前着を着た男が、それぞれの前にそっと差し出した一貫の寿司。それを前にして二人は沈黙し続けていた。板前が一礼し部屋を辞し、部屋には二人と、黒漆でしつらえられ静かに光る黒い座卓の上、一貫の寿司だけが残されている。
 ヒサダ老の腕が寿司を掴み上げ、そのまま寿司を口に含んだ。顔中を覆い隠している長い眉と髭に埋没した顔面器官、目と口がゆったりと動く。その様子を真正面から眺めることも出来ず、真横で感じるだけであった青年は、けれども今年もやはりダメそうだと瞳を閉じた。

§

 オフィス内、見慣れた人間が見慣れたいつもの仏頂面、見慣れた仕草でいつもの様に虚空をにらみつけているのを見つけたユェンは、唯一見慣れぬ彼のその服装に言及すべく軽妙に手を振った。
「随分キメてるじゃない、まるで暗闇みたいに真っ黒の素敵なスーツだね? ワンさん」
「今年も……」
「うん?」
 ヒサダ老の隣にいた青年、ワンは部屋で着用していたダークスーツのそのままに、自分の所属するオフィスにやってきたのだった。ユェンの声が聞こえていない訳ではないだろうが、視線は虚空からずっと外さず、彼は今年の敗因について考えているようだった。
 ワンは眼球の動きで所有者のみにその情報を見せる暗視モードから公開モードへ情報展開を切り替え、彼がにらみつけていた部分……だけではない、もはや彼を覆うドームのように展開した様々な資料……分子配列がほとんどだ、が、傍らに立っていたユェンを巻き込んで広げられた。ぎょっとするような物量の情報に突然囲まれたユェンだが、すっかり手慣れた様子でひょいひょいと取り囲む情報を軽く分類し、自分の身の回りだけをすっきりさせる。
「そっか、今年ももうそんな時期だったか……で、駄目だったんです? 今年も」
「”味も、食感も、香りも問題ないが、何かが足りない、私がそれを探してもう400年になる、今年もまた魚のない正月を迎えることになりそうだ、研究を続けよう、決してあきらめず”……今年もまたそれだ、まったくもって、変わらない!」
「魚、ねぇ……何回聞いても信じられない、食べたいとも思えないし」
 ユェンは手慣れた様子で各種配列情報をかき分けて、奥底にあるパブリック情報から一枚の史料を引っ張り出した。もはや何年前のものだろうか、ぼろぼろになったそれは商業ビルの店舗情報チラシだったが、折り曲げられくしゃくしゃになり、ひび割れた隙間から地の紙が見える部分がほとんどを占めており、一言で言うならばみすぼらしかった。そのチラシの残骸なようなものにうっすらと写っている鮮魚売り場、それが今の世にほとんど唯一残る、魚という生物の食用売買の様子だった。
 鎧のようなカルシウムの外骨格で身を包み、目に見えるものすべてを破壊しようとする敵対生物である今の”魚”とはまるっきり違うものであるという知識はあれど、魚を食べる、というその単語だけでなにかどうも嫌な気持ちになるものだと、改めてまじまじとユェンは歴史資料を見つめた。呆けたように資料を眺めているユェンの眼前に、突然いくつかの資料データが展開される。最後の一枚はほぼゼロ距離だ。ユェンは片眉をピンと跳ね上げて、傍らの天才に視線を送る。
「研究の間で君のとこでも使えそうな色素とタンパク質配置があったから渡しておくよユェン、安全性のチェックを頼みたい」
「げっ」
「魚の再現のために苦労して掘り出した大昔の資料からの再現だ、そこまで危険があるとは思えないが……念には念をだ、それは赤くなる、マグロに使おうかと思ったが……水に溶ける、魚には不向きだ。 ラディッシュや紫キャベツの再現に使えると思うよ」
 年末を前にして急に降って湧いた仕事にユェンは渋い顔を隠さない。水溶性ならむしろ野菜は不向きだと思うんですけどもぉと不満げに呟いて、ペラペラと展開された資料を嫌そうに指先でつつき、なんという素材なのかをワンに尋ねた。
「コチニールという名だったらしい」
「コチ…………? 虫、かぁ〜……」
 原料情報を参照し、この年末に闘うことになる対象の思いがけない姿に、虫取り網をもってひいひい言っている自分の姿を幻視して、ユェンはとうとう両手を上げた。

§

 急激に進行する海洋水の著しい減少という自然環境大崩壊の危機に際して、700年前の人類は人工海水の放流という手段を取った。今言わせれば愚かとしか言えないその行為は、200年の歳月を経て目に見える形で結実していた。すなわちそれは海水の変色、変異、未曽有の環境変化という、牙を剝く形でだ。
 海というものがその姿を黄色く変化させてから、もう500年が経っていた。

 防護服に身を包み、海水調査用のガラスケースを海へと投げ入れる。手元の計器で深度を計り、現状の海水に適応した”魚”によるケースへの襲撃を警戒しつつも海水サンプルを採取し終えれば、ワンはどこかよたよたとした足取りで重いケースを施設へ運んだ。
「やぁワン、海は青かったかい? 今年はどうだった? ……まぁその真っ黄色の海水を弄ってるってことは、”研究を続けよう、決してあきらめず”かな?」
「その通りさ、分かってるなら聞かないでくれ」
「はは、ヒサダの爺さんは相変わらず元気そうだな、俺も何度それを聞いたことか、……なぁワン、期待の新星よ。 お前が魚を完成させないとあの爺さん千年だろうが万年だろうが生きてそうだし、逆に言えば魚が完成した瞬間にあの爺さんはなんていうか、ぽっくりと成仏するんじゃないかと、割と俺は本気でそう思ってるんだが」
 嫌な話だ、とワンはため息をついた。それがあながちジョークと思えないところが特にだ。雑談を続けつつも計測機器が数字を返してきて。その記録を取りながら、ワンは落胆を隠さない。全てが教科書通り、記録通りの人工海水の成分と、人工海水放流前の海水の成分が混ざり合った結果が出ていた。つまるところ、人工海水を取り除けば以前の海の再現になるはずである、という理論上、以前の海はほとんどが水とナトリウムで出来ているという、それもまた教科書通りの結論に落ち着いてしまうのだ。魚という存在が壊滅的なダメージを受ける以前の環境の再現と演算は飽きるほど繰り返した、どう計算しても同じ結果が出る。なにが足りないのか、なにが必要なのか、そもそもの問題が見えぬ課題に、ワンは心底からなにか思いがけぬ一手を欲していた。

 魚の再現はヒサダ老のほぼ唯一残った強い強い心残りだというのは、この研究棟の人間にとっては常識と言えた。人口減少、環境変化、自然物質の変異、それに拍車をかけるような大小合わせて八回の戦争……、進む技術があればその代わりかのように失われてしまう技術や情報、急変する環境に振り回され……振り返れば、どうしてこう人類が無事に生き延びられているのかすらもが不思議だった。そんな人類たちにとって、どんな時代も最も重要なのは資源の確保だった。安定して製造が可能で、必要な成分が過不足なく揃っており、容易に摂取ができる”食料”の原型を製造し、900年前の人類絶滅の危機を乗り越えさせた。ゆえに彼は人類史の英雄ヒサダ老となったのだ。
 彼は最後の戦争が落ち着いて以降、この地球の9割9分の人間が生きて死ぬまで、定刻定時にノルマのように口にする人工栄養キューブ『ヒサダキューブ』の製造はすっかりと本社の部下たちへ任せて、ほんの一握りの富裕層、しかも味覚という感覚を大切に保持し続けている変人たちのために、かつての人類の食料の人口生産のための研究所を制作したのだった。野菜、肉、豆、穀物に茶、酒……様々な種類の原型を研究者たちと共にヒサダ老は作り上げ、そして最後に残っているのが”魚”である、という訳だ。
 ワンはその大いなる課題に、ここ数年単独で駆り出されている。チームで研究を進める正規の研究グループとは切り離された、完全なるヒサダ老直属の特命配置だ。それは彼の達成してきた研究者としての華々しい実績を意味している。期待の新星と呼ばれ、呼ばれ続けて何年経ったろうか、ワンの心の奥底に、歯がゆく思う気持ちが確かにあった。
 研究棟全体の中でも古株のディキシー、海水の数値をチェックするワンに話しかけた研究員だ、に、ワンはいくつかの希望を伝えた。寮のワンルームに置けるサイズのFRPに、生体合成肉素材Pスモールサイズ、浸透圧で触れるもの全ての水分を奪わない程度の薄さに調整された疑似海水、人工生成オキアミ、人工生成ワカメ、グルタミンキューブ、アスパラギンフレーク……要望の内容にディキシーは段々と表情をゆがませていく、本気か?と問いたい気配が古株の研究員の全身からあふれ出していた。けれどもそれは侮蔑の種類ではなく、そこまでやるのか、という驚きと称賛を含めた感情の表出であることはワンにも伝わっていた。どちらかと言えば、手伝いたい、というワクワクしているといった感情と気配を示しているディキシーに、ワンにとってもこの人のいい古株の研究員に随分長いこと世話を焼かれている自覚も感謝もあったものの、その気持ちを振り払ってきっぱりと告げた。
「知ってるだろう、共同実験はどうにも苦手なんだ……一人でやらせてくれ」

二、生体合成肉素材PSSの疑似海洋環境再現下での育成記録

 記録者:ワン・H
 生成条件:FRPに生体合成肉素材PSSのカタ部位までを疑似海水で浸し、餌を人工オキアミ、ワカメ、グルタミンキューブと――…………
 様々な条件を記載した記録を打ち付けながら、視界の端に部屋の一角を占領する空色のFRP(繊維強化プラスチック)を彼は眺めていた。研究棟に直結した生活棟のほぼ最上階、広くスペースがとられた自室には、けれど過去一度もここまで大きなものが運び入れられたことはなかった。部屋になにかがあるというのは邪魔なものだなぁとどこか新鮮に感じていた。
 ワンは夕食としてのヒサダキューブを口にすると、生体合成肉素材PSSへの餌の準備を始めた。研究者たちのほとんどはその研究員としての権限と研究の一部として研究成果……とんでもない高級品であるそれらを、手にする権利がある。彼らの多くが趣味と実益を兼ねて調理と食事というのを楽しみにしており、そうやって補給をするものが多い。けれどもワンは、調理も食事もずっとかつてから慣れ親しんだヒサダキューブだった。研究者としてこの一室を与えられて以降、初めてキッチンというものをまともに使うことになる。
 ”魚”という存在が摂取していただろうものを疑似的に再現した餌をケースに詰め、生体合成肉素材PSSの口元へ運ぶ。元となった生物、豚というらしいそれの特徴らしい長い鼻をひくひくと動かして困惑している。そのまましばらく待ったがどうにも接種の気配はなく、ワンは指先でペースト状のそれを掬い上げて、直接口元へ運んだ。ざらり、と舌に当たる部分にペーストを塗りたくる。その作業をペーストがなくなるまで繰り返した。

 生体合成肉素材PSS、肉を再現するにあたって必要な要素、肉の成長だけを抽出し再現したその生物は、逆に言えばそれ以外全てを切り捨てられていた。視覚、聴覚、四肢……”育つ肉”としての役割以外のものを極限まで削られた結果、その姿はなにかものの詰まった袋に似ていた。大抵の場合は培養液に完全に浸し必要な大きさまで育てられる。その方が効率的で無駄もなく、味のバランスも整うからである。今回、ワンがその手法を取らなかったのは、当然のごとくもうすでにヒサダ老が数百年レベルで繰り返している手法だったからだ。だからこそ、突拍子のないこと……生体肉の自室生成なんてことに手を出したのだ。少しでも条件を変えて、何か変化が生まれるのかが関心点だった。
 キッチンスペースで数日分のペーストを作成する最中、ワンの元にメッセージが届いた。必要機材の手配を頼んだディキシーからで、用意された道具の各種スペックなどがまとめられたデータだった。ワンはその場でざっと目を通し、記録に添付すべきだろうと転送をかける。メッセージの最後に一言、ディキシーからの私信が添えられていた。
”PS:名前はつけたか?”
 名前。培養生成する食材に名をつけるという発想が存在していなかったワンはついその文章を三回も読み返し、名前、という単語をさらに数度、反芻するように考え直していた。なにせ今回は実験のようなやぶれかぶれのようなものであって、これ以上誰かの手を借りる気はなかった。つまるところ、聞こえないし見えもしない生物に名をつけたとて、その名を知り、その名を呼ぶ人間は自分一人しかいないのだ。
 それでも、正直な所方向性に行き詰っていた彼の中で、思いもつかなかったことならばなおさらやってみればいい、という好奇心がもたげていた。それはまるきり、先ほどの食事の様子のようだった。その慣れない好奇心はどうしようかと判断に迷い、ひくひくと鼻を動かして、それが自分に必要なものなのかを感じ取ろうとしているが、どうにも分からないのも含め、ひどくよく似ていた。
 ふらりとキッチンからFRPの置いてあるリビングへ移動して、肩まで培養液に漬かっているPSSを見下ろす。薄い皮膚から透けている肉の色は薄赤い桃色をしており、資料を探った過去の魚の中に似ているものは思いつかなかった、これを呼ぶ名が必要なのだろうか、本当に? 直面した思わぬ困難さと、それを乗り越える術を持っていなかったワンにとって、やってみようかと囁いていた好奇心はもうすっかりと弱弱しくなりつつあった。
 その時、風もないのに培養液がゆらりと揺らいだ気がした。見えない穴でも開いていただろうか、としゃがみこんだワンの耳に、聞いたことのない音が聞こえた。ピ、グ、ピ、ギ……その甲高く濁った音、心地いいとは呼べぬ音は、確かに目の前の生物の鼻辺りから発せられている。生体合成肉素材PSSが、鳴いていた。
 鳴くのか、お前は。何十年間も水槽で育つ彼らを眺めてきたのに、一度も聞いたことのなかったそれに、ワンはそうただただ目の前で起こっている事象を反芻して、呆然と揺れる鼻先を眺めることしかできなかった。

§

 その晩、ワンは一晩中悩んで、生体合成肉素材PSSをサワラと名付けた。魚へんに春と書くその名に託したのは雪解け。それは行き詰まりを見せる状況打開への祈りに他ならなかったが、彼にその自覚はなかった。
 最初の晩、かの生物……今はサワラと名付けられたそれ、が鳴いた時と同じような驚きがその後も続いた。何も見ず、何も聞こえず、何も感じずにただ水中に浮かぶ肉袋と思っていたものが、朝にはサワラになり、そして彼は時折鳴き、朝に窓から陽の光が差し込むと嬉し気に体を揺らす。その控えめな揺れは培養液を揺らし、ちゃぷちゃぷとそれもまた控えめに音を立てた。初日には困惑をしていた食事も、数度繰り返せば理解したらしい。ワンがケースを鼻先へ持っていけば、ヒクヒクと鼻先を震わせて、首を伸び上げるようにしてケースにしゃぶりつく。舌の動きは日を増すごとに洗練され、ケースの形やそれを支えるワンの手指を覚えたかのようだった。
 逆に言えば、彼にはそれだけしかなかった。動き回るための四肢や筋肉はなく、部屋を支配しているかのような無機質、雲のない空のようなぺったりと平らな空色のFRP(繊維強化プラスチック)の、さらには彼が置かれた中央部分だけが彼の世界の全てだった。首の動きだけが彼が世界に干渉できる全てで、それは培養液を控えめに揺らすだけの力しかなかった。食事をとる際もただ口元に運ばれたペーストを無心で舐めとるだけで、日々配合している中で生まれる多少の配分の変化も、感じているのか分からなかった。時折鼻を鳴らすようにして鳴く声だけが日々違うものではあったが、言葉を持たぬ彼が鳴らすその音がどんな意味を持つのかを察することは不可能だった。
 彼と彼の日々はゆったりと始まって、そしてひどく単調であった。変わる部分はほぼほぼなく、ただただ毎日の繰り返しが積み重なっていった。サワラは順調に成長していた。週に一度の計測数値を記録するグラフは右肩上がりで、一般的な成長曲線となんらズレることもなかった。肩の位置が少し高くなり培養液の量が増えても、毎日過ごす日常が大きく変わることはなかった。

三、日常(一辺)

 窓からそそぐ陽の光の元、春の空のように薄く雲一つないぺったりとした水色をしたFRP(繊維強化プラスチック)の中で、ゆったりと一匹の生体合成肉素材Pスモールサイズが揺蕩っている。マズルのように伸びており、先端が特徴的な平たい形をした鼻をひくりひくりと動かして、機嫌がよさそうに身を震わせた。朝が来て天気が良ければ、カーテンを開いて陽を取り入れ、そのまま窓を開いてすぐ近くにある海からの風を採り入れることにしていた。部屋の温度や空気成分に異常がないかを傍らの計測器であらかた確認し終えたら、そっと傍にしゃがみ込む。
「サワラ」
 名づけた名を呼びながら、ちゃぷんと傍らの培養液へ沈めて掬い上げた、水分を纏った片手で、そっとその身を撫でれば、ピギ、と高く小さく鳴いた。
 彼を呼ぶ声は決して彼には届かないし、撫でる手の持ち主が彼とはかけ離れた姿をしていることを彼は見ることもない。ただ触れた部分の体温を共有することだけが、彼に彼とは違う存在が目の前にいることを伝える唯一の方法だ。そしてその存在を彼がどう感じているのか……脳の機能も最低限のはずで、そもそも彼に意志というものが存在するのかも、疑念が残る。いや、おそらくは存在しない。意思も感情も、夢も、ない。
 そうでなければ、やりきれない。

四、甘じょっぱく苦く辛く熱い寿司を

 味のバランスを取るため、生体合成肉素材PSSの”収穫”タイミングは当然であるが綿密に計算してあった。通常の生体合成肉素材PSであれば主となる首から下の肉部分が重要になる。脳とそれに連なる神経系を引き抜き少ない骨格を取り除いた後、首から上部分はミンチにして研究員への提供品になるが、今回の実験で注目するとすれば同じバランスで成長要素を与えた完全培養のものと味の変化があるのかどうか、特に通常よりも発達するであろう首筋と舌の肉質には注目しないといけない、という事前の仮説も立ててあった。
 ディキシーは研究員としても優秀で、渡した計画概要から必要になる餌素材や培養液の量を見誤ることはなかったし、そして彼の根っからの人好きと思いやりの深さによって、多少の失敗があっても問題がないだろう程度の柔軟性担保のための増量分は、きっかり一週間ぶんほど余分に準備があった。
 完璧なタイミング、それを逃して残り一週間分しか用意がない餌素材のペーストを作成しながら、ワンはこの計画の失敗を嚙みしめていた。目下の問題はこの一週間が過ぎ去ったその後だ、ディキシーに伝えれば必要なものはすぐに届くだろう、けれど……。どうしたいのか、どうすべきなのか、ワンは結論を出せずにいた。いずれにせよ生体合成肉素材の寿命はそう長くないはずだ、それも必然だろう、生きていると呼ぶにはあまりにも不自然な命の形をしている。生きているとも言い難く、生かされているとも言えそうで、けれど不幸だと思う感情が存在しないのであれば、一体何を強いているのかも分からず、そして分からないままでも事実として彼はそこに在った。

 どうすべきか、の結論が出ないままに、結論を出す必要はなくなった。ワンが昼の給餌にサワラの元に行った時、サワラはもう動かず、体温もなくなっていた。静かに生きていた彼は、同じようにただただ静かにその生を閉じていた。ワンは指先でそっとまぶたを閉じてやって、その身を持ち上げた。最後の計測と調理の為だ。食べないという選択肢は、ワンの中になかった。
 肉に含まれる水分量調整のため、処置後の熟成期間は変わる。”魚”の場合は最も水分量が多い、捌いた直後が理論上最も理想的なタイミングだ。ワンは迷いなく適切に処置をして、一切れ切り取ったサワラの肉を口に含んだ。
 脳内で展開する推察されるタンパク質羅列に味蕾刺激の強度、ばらつきをあえて生みエナメル質の……つまりは歯で噛み締めた際の感覚、食感操作は最後の段階で、今回はむしろ味覚操作が主になるはずで……。脳内でがなり立てるように鳴り響く、研究員として様々に考えねばならぬ項目を無視して、ただただ味へと集中する。ベースとなる生体合成肉素材PSSにどうしても含んでしまう甘み、そこに絡みつくようにグルタミンとアスパラギンによって生成された魚の味が、ほぼ計算通りに乗っていた。今まで様々な方法で試作し生成してきた”魚”の味と大差はないことは分かっていて、けれどもその味はどこか苦く、塩気が強すぎるようだった。たったの一切れを飲み込むのに酷く苦心する。何度も何度も噛みしめられて、どろどろの液体のようになって喉を滑り落ちたサワラのたった一切れが胃に収まって、それなのにまるで石を飲み込んだように腹が重かった。
 キッチンをふらふらと離れてリビングに出たワンは、部屋の中央で呆然自失とへたり込んだ。窓から広く大きく見えていた黄色い海原は、しゃがみこんでしまえば目には入らない。ワンの視界には雲のない青空のようなFRP(繊維強化プラスチック)に、その中に静かに広がる透明な培養液、培養液の水面は開かれたカーテンから注ぐ陽に照らされきらめいて、視界の邪魔をするものもない広い空と共に、視界を薄青い水色に染め上げていた。
「あぁそうか……サワラ、君の海は……青かったんだな」
 ああ、そうなんだな、知らなかったな。そう一人呟いて、ワンは部屋の真ん中で小さくなるように膝を抱えた。

§

 ヒサダ老と面会する時はいつもこの試食室……味覚以外の情報を最低限に抑えるために暗く沈んだ薄闇の部屋の中だ。まるで何かを悼むような、喪服のような黒揃えのダークスーツを着込んだワンと、部屋の主であるヒサダ老は、部屋に広がる闇に溶け込んでいるようだった。彼らの目の前にいる、彼らとは真逆に輝いて見えるほどに真っ白な板前着を着た男がそれぞれの前にそっと差し出した一貫の寿司。それを前にして、二人は沈黙していた。沈黙する二人と同じように黙って腕を動かしていた板前が一礼して部屋を辞し、部屋には二人と、黒漆でぬめるように静かに光る黒い座卓の上の寿司だけが残されている。
 ヒサダ老の腕が寿司を掴み上げ、そのまま寿司を口に含んだ。顔中を覆い隠している長い眉と髭に埋没した顔面器官、目と口がゆったりと動く。驚くほどの長い長い時間をかけて、寿司を咀嚼して飲み込む。ワンはその様子を気にすることなく、自分の前に置かれていた寿司を手にし、食べた。
「ワン、今日の寿司は今までで一番、そうだな、こうとしか表現のしようがないが……不味かった。 お前が研究を始めたすぐ……もう何年前かな、あのときのものよりも、遥かに」
「……はい」
「けれど……」
 ヒサダ老は言葉を切り、行儀悪くもペロ、と寿司をつまみ上げた指をしゃぶった。ふ、と笑いのような吐息を漏らして、切っていた言葉の続きを語りだした。ことのほか深い喜びを含んだ声色で。
「悲しい味がしたよ、ワン。 流れようとする涙を耐えた時の味だ……塩と苦み……喉奥が焼けるように熱く、最後に酸味と苦みが残る……、久しく、忘れていた味だ。 私が焦がれ、私が見つけられない味は、なるほど、魚ではなかったのかもしれないね。 君が見つけた喉奥に滑り落ちる涙の味が、それを思い出させてくれたかもしれない」
 研究を続けよう、決してあきらめず。ヒサダ老は今年もまた一言一句たがわずにそう言って。そしてこれもまた今までと変わらずに、今年もまた挑戦を称えこれからを寿ぐようにして柔和に微笑んだ。同じ言葉、同じ笑みだ。けれどもワンには違って聞こえ、違って見えていた。
 面会を終え去っていくヒサダ老の小さな背中を見届ける。やぁワン、今日の海は青いかい?ディキシーがまるで挨拶のように毎日問うてくるその言葉がふと思い出された。ワンはまぶたの裏に、春の空のように薄く明るい水色の色をした、彼が生まれて初めて見た青い海を追いかけていた。


ひとこと
 長いような短いようなアドヴェント期間も、今日が終わればあと三日。明日は居石信吾さんの一編だ。どうかクリスマスまでお楽しみに。

 そして私からは最後にこれを、「それではみなさん、よいおとしを!」


いいなと思ったら応援しよう!