丁寧な暮らし/部屋と私と花瓶という話
ささやかな贅沢にして精神の保養。
容れ物ひとつに頂く癒やしと活力。
この文章を書き始めた今日(3/8)は、国際女性デー(International Women’s Day)だ。概要……?まぁ、下記リンクでも開けばいいと思う(適当)。
確かに、ベトナム在住者はともかく日本では馴染みの無いものだと思う。
実際私もその一人で、この国に来て1年目の3/8当日に初めてその存在を知った。そう、この国際女性デーというやつはベトナムでは広く一般的なのだ。当日は多くの人々がお花をあげたりもらったりするし、何ならオシャレなカフェやレストランでデートする男女だって多い。市内を行き交う二人乗りバイクをよくよく観察してみると、後ろに座ってる女性が運転中の男性に寄りかかったりハグしたりしていることだって珍しくない。
※日本はともかく、海外でリア充爆発しろとか思ってはいけない。言ってもいけない。日本以上に虚しくこだまするだけさ、どうせ。
思い返せば、以前の私はお花があまり好きではなかった。
いや、単純に男の子として育った以上、好きになる土台や経験がなかっただけなのかもしれないが、それ以上に『命を摘み取って飾る』という行為に意味を見出だせなかったからかもしれない。
例えば、お祝い事やお見舞いのために花束を用意して渡すとする。
まずは花屋の店先。「あれがいい、これがいい」とか言いながらいくつかの種類のお花を選んでは、必要のない茎や葉をハサミでバツバツと切っていく。
そうして出来上がった花束を、今度は家の花瓶ないしは適当な空き瓶空き缶に入れて飾るというのだ。例え毎日水を換えようとも、どうせ数日後には枯れて散ってしまうのに。
「わざわざそんな事をせずとも、ちゃんと土壌で育ててあげればいいのに。その方が彼ら(?)も天寿を全うすることができるじゃないか」って、以前の私はそんな事を考えていた。
そういう意味では、家の庭や鉢植えで育てられているものには抵抗がなかった。当然、そこには土壌の有無というたったひとつのシンプルな違いしかない。そしてその違いに気付いたとき、そもそもそこにこだわるも理由もないということにも気が付いた。
「お花を飾る」ということ自体が、近所のスーパーなんかで肉や魚や野菜を買って調理して食べることと本質的に何も変わらないと気付かされた。それを自力でできた私は、人よりほんの少しだけ賢くなったのかもしれない。
もしかすると、そんな事に気が付くことができたのも国際女性デーのおかげだろうか。
この国で暮らして早4年、花屋に行くことも、お花を買うことも、お花を誰かにあげることだって、もうすっかり慣れてしまった。何なら日本に帰っても(機会があれば)そつなくこなせる気がする。
異なる生活環境の中で過ごし、そこの慣習や文化に触れるということは、それだけ意識にも変化や影響を及ぼしやすい。良くも悪くも……いや、少なくとも今回は前者かな。
花瓶もいいけど、ディフューザーもいいな。
液体の入った瓶の口にスティック刺すやつ、お手軽だし室内で自己主張しないところがいいと思うのです。
飾り気のない男の一人部屋でも違和感無いよねって。
食事に非ず、薬に非ず、その姿は生命そのもの。
それはかけがえのない丁寧な暮らし。
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