マーメイドラプソディに学ぶ「不自由」
セカオワのマーメイドラプソディには、
「不自由」について考えさせられることがある。
人間からしたら、水槽の中のマーメイドは
「不自由」で、
“人魚を海に帰すべきと言った”
しかし、マーメイドは
“わたしはあなたが会いに来てくれる不自由なこの場所が好きだわ”
という。
ここで学べるのは、
自由=幸せ、不自由=不幸
という方程式は成り立たないのではないかということだ。
そして、これは自論だが、ある程度の不自由さは快適さえもたらすのではないかと思うのだ。
例えば、校則に服装の規定がない学校の人からすれば、毎日制服で学校に通わなければいけない人たちを「不自由」だと思う。
しかし、毎日制服で通っていた高校生の中には、大学で服装が自由になった途端、「何を着たらいいかわからない」と悩む人もいる。
むしろ「高校は服を選ばなくて楽だった」とさえ思う人もいるだろう。
これこそ、不自由さがもたらす快適さだ。
ここで、人魚と毎日制服の高校生の共通点を挙げると、
「不自由な環境との比較対象がなく、自分の不自由さに無自覚でいられる」という点だ。
そう考えると、
無自覚な不自由=幸せ
比較対象などがあり、自覚がある不自由=不幸
の傾向はあるかもしれない。
例えば、友達の中で自分だけ門限が早い場合は、
比較対象などがあり、自覚がある不自由=不幸と感じることが多く、この傾向に当てはまると言える。
就活の時、どの企業でも自由に受けていい状態になるわけだが、無数もある企業からエントリーする企業を決める作業はとてつもなく難しく、途方に暮れてしまったことがある。
これは自由≠幸せの状態だ。
だから条件を決める。
転勤はない方がいい、残業は〇〇時間まで、女性が働きやすいなど。
そうすることで、少し選択肢を狭めることができ、少し快適になる。
自由、不自由の定義は複雑で、
遊牧民からすれば何年も同じ家に帰る私は不自由だと見るかもしれない。
しかし私からしたら、むしろ快適である。
このような様々な分析のもと気づいたのが、
他人から制限されない自由を得ながら、
自分で制限する不自由を
バランスよく持っている状態が、幸せなのではないかと思うのだ。
そこには、「いつでもやろうと思えばできる」という安心感があるからだ。
たまに毎日規則正しく、新しい事も特にしない生活を送っている人がいるが、その人を「つまらない」「不自由」だと決めつけるのは浅い気がする。その人は、自分で制限する不自由が、たまたま多いタイプなだけで、他人に縛られているわけではないので、幸せなのである。
自分の不自由の範囲を定期的に見直して、調整しながら、自分が心地いい状態を見つけていきたい。そして他人から制限されている不自由があり、抑圧されている人がいたら、声を挙げて力になりたい。