やりきれないこととか原始仏教とか

自分は28歳のこどおじニートだ。
全てが不安で、イライラする。人を殴りたいし、女を犯したいが、やった瞬間に臆病な自分は後悔するだろう。ニーチェはこういう人を、ペイルクリミナルとか言ったようだ。だからどうしたんだよ。なんの解決策にもならない知識を披露しました、すみません。

恋愛コラムを見たときの怒り、顔のいい女が自らの恋愛遍歴や、男を上から目線で評価するときの怒り、転職サイトや自分らしく働く云々の言説への怒り、自分の不器用さへの不安と怒り、何をやっていけばわからないという不安、セックスしたくて仕方ないという怒りにも似た焦燥感、現在の自分はどうしようもなく社会の底辺にいるという悔しさ、何もできない怒りと焦燥感、ひとたび他人の前に出れば、自分の気持ちを殺して普通の人、普通にいるダメな人になってしまう悔しさ、笑顔で生きている人間への怒り、金を使わない自分への後悔、過去への後悔と他人への憎悪、他人と関係を持たなければならない悔しさ怒り、他人と比べて絶望してしまう自分への怒り、他人への怒り、自意識そのものへの怒り、
こういうものが自分の中に渦巻いている。

具体的に言おう。極端に言えば俺は、
レイプって気持ちいいだろうなー!!と叫びたい。どこか、群衆の中で、誰かにそう伝えたい。無意味だ。無意味だけど、叫びたい。衝動ってそういうもんだ。
だけど、そんなことしたら、今の社会だったら、「レイプの被害者の気持ちを考えたことがあるのか」とか言い出す偽善者・クソ野郎が、確実にいる。それが耐えられない。そういった存在が脳裏にちらつくことすら耐えられない。
俺は、気持ちよさそうかどうか、の文脈で、
レイプって気持ちいいだろうな!!
と言いたいだけであって、レイプの被害者を傷つけたいなんて全く思っていない。加害者・被害者の文脈で考えていない。いきなり襲ってセックスできたらどんなに気持ちいいだろうな!ということを、ただただ野生に返って思って叫びたいだけ。
そんなこと考えちゃだめだ!と偽善者は言いたいんだろうが、なんでそんなことを押し付けられなきゃいけないんだよ、と思う。
ただ、今の社会だと、俺は確実に異常者扱いされてしまう。それくらいわかる。
衝動が、どんどん死んでいく。衝動が死んでいくことが、悲しいのだ。
やりきれないのだ。

例えば、メダルをかじった知事が批判されている。いや、そんなに批判されることか?
アスリートの気持ちになってみたかっただけだろう。それが、そんなにいけないことか?
噛んだあと、丁寧に拭いたかどうか、を避難するなら話はわかる。まぁコロナの時代だからな。
だけどもう、噛んだことが駄目だ、みたいになっている。
ちょっと文脈が変わるが、これが、若手イケメン俳優とかがメダル噛んでみたら、オ〜♪とかいってうるさそうなバカな女達は見過ごしてたんじゃないのか?
お前らは結局、おっさんは汚いって思っているだけだろ。それってお前らがやんややんや騒ぐ差別そのものなんじゃないの?

やめようやめよう、こんなことを言っても、すみませんでした、と誰かが出てくるわけでもない。


精神科に行こうとしたが、やめた。
2秒だけ考えたが、やめだ。
精神科なんぞに金を払いたくない。
しかも、俺は精神科に疑問を持たずに行くような人間たちに怒っている。自ら進んで社会不適合者の烙印を押されに行くようなものだ。社会の畜生という意味で社畜だ。社会でうまくやれていないことすら、誰かに認めてもらわないと気がすまない、わからないやつらだ。
俺は自分が社会不適合者だと知っている。どう考えてもこの自意識は、一般道から外れている。
だいたい、精神科医に話すことなど、自分で書き出して自分で回答を得られるだろう。
そんで、「もっと自分を認めてあげてください」とか、「もっと自分を褒めてあげてください」とか、「肯定的に生きてください」とか、言われるんだよ。
そんなの、もう、図書館の本のタイトルで充分だろう。
道の真ん中で「レイプって気持ちいいんだろうな!!」と叫ぶことができなくて苦しいです、と言っても、おそらく精神科医は、
それはあなたが絶対にやらなければいけないことではないでしょうし、やらないことであなたは無事に生活できているのですから、重く考えることはないですよ、とか言うわけだ。相手がおっさんなら、そうですよね、とか俺は言うんだ。本当にそうですよね、と思うから。だけどそんなことは、もう自分でわかっているわけだ。確認する必要がない。
相手が女なら「犯したいな」と思うだろう。これは言わずもがなだ。

イライラさせてくる人間を殴りたい!でも殴り返されたくない!
女を犯したい!!でもそれについて何らかの罰を受けたくない!!

幼稚なんですわ。でもまずいことに、全て自分の中でわかってるんですわ。だから、大抵のことは、「本当にそうですよね」とマジで思えてしまうんですわ。
でもどうしようもないんですわ。マジで犯罪していないのが偉いというか、怒られたくない、という意識が歯止めになっているんだな、と思う。その意識がすべての行為を躊躇させているのも確かだが。

もう言葉では届かない、完全に腐りきった自意識に、光を当てて焼き尽くすのが、釈迦の教え、原始仏教だと思えてきた。

大学生のころ、ロボトミー手術を受けたいな、と思っていた。どんな大学生だよ、と笑えてくる。本当に精神的に終わりすぎている。ちゃんとしたところで働いていたのが奇跡だ。

原始仏教は、基本的には自我の否定だ。ロボトミーみたいなもんだ。自分の意志、西洋的な自我が苦しみのもとなのだ、という教え、だと思う。自分に合っていると思う。この泥沼から上がれるかもしれないと思う。

ただの仏教、とは言わない。なぜなら日本に入ってきた時点で、釈迦の教え=仏教 ではなくなっているからだ。余計なものがくっつきすぎている。
思えば、今年のはじめ頃に、かなり原始仏教に傾倒した。しかし、一緒に勤務していた人妻を犯したいとか、職場の女を全員犯したいとか、強く思っているうちに、原始仏教の教えが自分の中で弱くなってしまったのだ。

俺は性欲が強いわけではない。何回も連続で射精ができるわけではない。ただ、女をなるべく犯したいと思ってしまっている。犯したい、という思いが前につんのめっている。そして、たぶんこれは、性欲と人生のうまく行かなさが結びついてしまっているのだ、と思っている。セックスをして、何かを取り返さないといけない、と思っている。射精にいたる途中の感情で、今まで取りこぼしたものに出会えると思ってしまっている。
内観しよう。自分の感情をすべて、〜と思っている、という状態にして、断定しないようにしよう。俺みたいな人は断定が好きだ、と思う。
断定すんなよ、と思いながら俺はタイトルをつけている。

























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