高野雀「It’s your (new) ID.」:交錯する「ID」は心に触れ、人知れず「new ID」に更新される
高野雀さんの単行本『あたらしいひふ』に収録されている「It’s your (new) ID.」は、自分を規定するものの自覚や揺らぎ、交差を描く物語です。同じ学校に通ういくつかの男女ペアが主役となってそれぞれの話が展開され、それぞれのIDとnew IDが描かれます。
自分を規定するものに対する葛藤は思春期のテーマになりがちですが、この物語ではすでに受容されていて、むしろ客観的に俯瞰的に捉えています。理想と現実の乖離に苦しむというよりは、冷静に見つめている姿が印象的です。その中でも心の揺れ、感情の起伏はあるわけで、まったくの無風というわけでもないのですが、そうした揺らぎすらも、全体に漂うニュートラルな空気に呑み込まれていきます。
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例えば、身体中にほくろのある少女が登場します(サブタイトル「mole」)。夏になると目立って好奇の目で見られるから嫌いだけれど、なんとなく折り合いをつけて生きている。自らの特徴のひとつですが、肯定も否定もしきれません。あるとき、同じクラスの少年がそのほくろを「星みたいでかっこいいよね」と言って話しかけてきます。彼は彼女のほくろから宇宙を漂う無数の星をイメージし、彼女に惹かれています。二人が付き合うようになってしばらく経ったある日、彼女が熱心に話している中、彼はそっと彼女の手を取ります。重ねた手に自分の心を委ねるようにして、彼女の声に耳を澄ませながら、彼は自らのイメージに広がる宇宙を漂います。
また、背中に「見えない大きな刻印」(斑のようなもの?)を持つ少女は、時折うんざりしながらも、淡々として生活を送っています。彼女は自分を鹿のようだと思い、鹿を抱え、鹿に囲まれるファンタジーまで思い描きます。一方、アニメのキャラクターに心酔する少年は、その少女と学校ですれ違って、キャラクターの抱き枕からはしない、自らが求めていた匂いに触れます。そして、放課後の教室で少女の首筋の匂いをかがせてもらう少年は、抱えていたものが崩れていくのか、やがて涙をこぼします。エキセントリックな展開に戸惑いながらも、二人のIDが交わる様子が印象に残ります(サブタイトルは「flavor」)。
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先生が生徒たちに向かってcomplexとcomplicatedの違いを解説する場面があります。どちらも「複雑な状態」を表わすものの、厳密にいうとニュアンスが異なります。作中でも挙げられているhousing complexが「団地」であるように、complexは「関連する要素の集合」というニュートラルな状態を示しています。一方、complicatedは厄介な問題を持った複雑さ、もつれた糸のような「解決するのが難しい」状態を示します。なお、complexは「編む」、complicatedは「折り重ねる」という意味の言葉をルーツに持ちます。
「It’s your (new) ID.」で描かれているのは、complicatedというよりはcomplexの状態なのだと僕は解釈しました。少年少女のIDが交錯する様子は「解決すべきこと」ではないし、自らのIDについて悩むことはあってもそれがクリティカルというわけでもない。各自のIDどうしが接触したとき、衝突ではなく併存が描かれます。一人ひとりが各自のIDを持って存在していることは、それこそ団地のようなものなのかもしれません。そうした中で、new IDへの更新は人知れず、脱皮のように、あるいは細胞の入れ替わりのように行なわれていきます。淡々とした日常の中にときどきIDを更新させるような出来事があり、同じような温度で更新は繰り返されるのでしょう。
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