にがくてあまい レシピ71 カリフラワーと干し椎茸のじゃーじゃーうどん

『にがくてあまい』の71話「カリフラワーと干し椎茸のじゃーじゃーうどん」が公開されています。今回はシリアスな展開が強めですね。ひとつ大きな山が来るのか、それとも物語を畳むのか。「マキ」と「渚」の関係が大きく変わるのか、あるいはやはり穏やかな日常が続くのか。いずれにしても今後しばらくはダイナミックな展開が予想されます。これまでも、さまざまなイベントが起きて、作者の小林ユミヲさんはすごいストーリーテラーだと思いましたが、今回もインパクトのある展開を用意しているに違いありません。

http://comic.mag-garden.co.jp/eden/58.html

そもそも『にがくてあまい』という物語は父「豊」と娘「マキ」の対立から始まりました。野菜がきっかけで仲が悪くなり、絶縁状態のようになった父娘関係。その溝を埋めたのもまた野菜でした。苦くて食べられない、食べたくないものであっても、調理したり、少しずつ慣れることで飲み込めるようになる。同居人「渚」や母「操」の助けを借りたり、少しずつ素直に向き合うことで、人と人の関係も良いものになっていく。

勘当同然に娘を拒絶していた父も、言葉ほどに突き放すことはできず、むしろ惜しみない愛情を注いでいました。仲直りしてからは、娘に避けられるくらいに、その愛情を表現します。その後、物語が進む(娘と共有する時間が積み上がる)につれ、娘の行く先と自分が残せるものについてばかり考えるようになる。その気持ちを感じていながらも、ついに(酔った勢いの間違い電話とは言え)はっきりと聞かされた娘。次回以降、さまざまな想いが交錯するストーリーが展開していくことでしょう。

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家族とは。時代が変わろうが変わるまいが、ふたつとして同じものはありません。「家族とはかくあるべし」というような、あるべき姿が存在すると思い込むこと自体が、もはや家族のひとりひとりではなく、家族というシステムを見ていることを示しています。そうではなくて、僕らはもっと、ひとりひとりにフォーカスした方がいいのではないか。システムの中で埋没しがちな個々の奮闘(struggle、もがき)をすくい上げた方がいいのではないか。

そう考えたとき、漫画であれドラマであれ、あるいはノンフィクションであっても、さまざまな人間の姿、家族の姿を見ることはとても重要で、とても貴重な体験なのではないか、と思います。ただの空想として切り捨てるのは、世の中を良くするための可能性を潰している気がします。フィクションだからこそ描けるものがあります。フィクションを接点として「こういう家族があってもいいよね」と思える…そうやって社会における許容範囲が拡大して、余裕という名の余白が広がるといいなと思います。

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