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西田幾多郎の生命哲学①

「場所」論はそれ自身、生命論のひとつの段階として想定されるものでもある。「絶対無」の場面は、まさに「深い内的生命」の記述に通じていくように描かれる。さらに「行為的直観」や「絶対矛盾的自己同一」によって、「ポイエシス」を直接論じる西田が、生命をその論述の中心的なモデルとしてとらえていたことは間違いがない。それは、後期の重要な著作が「論理と生命」と名づけられていることからもわかる。西田は最晩年にも「生命」という名の論考を著している。この最後の段階は、「自己創出」する生命を、存在そのものの範型として語りだしていく場面であるともいえるのである。
                  檜垣立哉「西田幾多郎の生命哲学」


西田が最後に到達した哲学的境地は、生命への思考=志向=至高であった。

生命論こそ、西田幾多郎がもっとも語りたかった主題であったかもしれないのである。


ベルクソン、そしてドゥルーズへと続く「生の哲学」は、たとえば「生の政治」を提唱したフーコーで迂回している。

そしてまた西田の「生命と論理」「生命」などの晩年の仕事によって、「生の哲学」はまた異なった様相を見せてくれる。

私的には、レヴィ=ストロースの「野生の哲学」やエマニュエル・レヴィナスの「存在の彼方へ」なども別ルートの「生の哲学」と位置付けてもいいかもしれない。

岐阜おおがきビエンナーレで「いのちの対話」という講演をする、30分ほどだが、「哲学における生命の歴史全般を」と主催側からリクエストされていて、アリストテレスからユヴァル・ノア・ハラリあたりまでの生命思想をくまなくトレースすることは不可能だ。

そこで(海外のゲストも多いので)敢えて、西田幾多郎や田邊元らの生命思想に接近して、こんにちの生命思想(死生観)へと外挿したみたいと思う。

まずはその皮切りに檜垣氏の西田論を参照する、彼はドゥルーズの専門家であるがゆえに、ドゥルーズが西田を読んだらどう考えるか、という思考=試行で書かれているのである。

ドゥルーズがROSASのダンスを見たらどう思うかという論文を書いたかつての教え子が檜垣研に入った。それはドゥルーズ論であり、同時にケースマイケル(ROSAS主宰)論であった。

つまりはドゥルーズ論であり西田論としての生命論をぼくは読んでみたいのである。

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