今日のログオフ
こんな感じで書き出しを迷うことがあるけど、迷ってるなら迷ってることを書けばいいというのは一個発見だった。そうすると、とっかかりができてスルスルと進んでいく。今日は今日のログオフから始めてみたい。そんな律儀にやらなくていいのかもしれないけど、やりたくなるからしょうがない。今日も今日からログオフする。今日のログオフについて書こうと思ったのはもっと前だった。今日のログオフという言葉が出てきたのもずっと一年位前だけど、今日歩いてる時に今日のログオフという言葉が出てきたから、今日のログオフを書こうと思った。今日のログオフについて書くのは不安との戦いという側面もある。何が不安なのか。今日書いてしまったら、せっかくの書きたかったことが今日で終わってしまうのではないかということ。こうして文章にしてみると不安、不安とも感じてないモヤモヤみたいなものが意外とスルスル出てくることに気づく。ここまで出てきた文章だけでも眺めてみると、ATGCとか0と1とかに見えてくるから不思議だ。四角い原稿用紙にポコポコ記号が一マスずつ埋まっていって、眺めてみると一個の塊になってる。その話は置いて今日のログオフに戻ると、今日からログオフすることはそれなりに大切だから書こうという気持ちになった。今日は今日のうちに出し切る、それの何が安心をもたらしてくれるかというと、情報は再生産可能だということだ。情報は無くならない。何なら増殖していく。いくらでもコピー可能で、重ね合わせも配線し直しもできる。だから、不安になる必要がないんだった。今日出せるものは出してしまおう。それが安心感に繋がる。現に今安心している。このことはそのうち書き直すかもしれないけど、安心してる。本当はもっとたくさん書きたいことがある。書きたいことって言い方はおかしいかもしれない。書きたいって感覚はもはやわからない。けど、書きたいと思ってる時の感覚に近づきたいと思ってることは確かだ。その瞬間の感覚にできるだけ近づいていきたい。そのうち意識がなくなるのかもしれない。意識が浮上してる時は何か大きな塊が浮かんできた時か、新しいエラーが起きた時か。コンラッドの闇の奥はそういうのはわかる話らしい。そう思ってたら書きたいことを思い出した。今書いてることは昨日の自分からすれば新しいことだ。昨日は配線のことを書いてた気がすると、新しい、何が新しいかというと配線が新しい。ATGCの話でいうと、昨日と今日では全く違うタンパク質が作られてる。あくまで比喩だ。文章単位での話だ。ここまで書いてきた記号の塊がいくつかの大きめの塊にリサイズされると何かが見えるのかもしれないけど、そんなことはよくて、要は新しいのは配線が違うからだということだ。わからないって感覚にもつながってくる。何かをわかりたい瞬間がある。ある本を読んでて全然わからない、話がピンとこない。わかりたい意欲が湧いてこないものもあるけど、たまにわかりたいと猛烈に思っちゃう時がある。これは何なのか。純粋に感覚としての話だ。もう少し聴きたい、みたいな感覚だ。それを続けていくと、何かがわかる瞬間がある。そのとき、わかりたかったことは自分の中になかったわけでない。自分の頭の中にあることがベースになって、新しいことがわかる。この新しいことがわかるとき、めちゃくちゃ気持ちいいけど、全く未知だったことではなくて、既に頭の中にあるものが、新しく組み合わされて、新しい単位として存在する。それがわかった瞬間だと思う。だから、新しいものって何だろうみたいな気持ちになるけど、それ以上行くことはあまり面白そうじゃないので、新しいものが生まれる時は再編成が起きてる時で、それがとても気持ちよさを生み出してることがわかることが大事だった。とはいえ、何かしら新しいものは入っている。それを新しいものと捉えるかは別の話としてあるけど、新しい単位を頭の中に取り込むのがしっくりきている。それがわかってよかった。そうすると、今日書きたいのは単位を常に書き換え続けたいということだった。辿り着きたかったのはそこかもしれない。なぜなら安心感が押し寄せているから。これはもう定番のようになってきた。本当はもっと書きたいことがあるけど、安心感が押し寄せてきているので、ログオフ作業が終わってきている。今日からログオフ。と書き終わった後に保存ボタンが機能してないからその間にもう少し書くことにした。今日のログオフが終了したということは、意識のデバグ作業が終了したということだ。脳の中でカチカチカチカチコンピュータを叩いてる意識を想像してみると、点検して、追記して、今日もお疲れ様でしたということだ。これが上手くなればなるほど、長いものが書けるようになってくるのかもしれないし、それが行き着く果てには、デバグ作業が常に終了している、同時に進行しているような状態になって、ついには意識が消えてしまうかもしれないということだ。そうすると、コミュニケーションは変わらず必要になるけど、工数が限りなく少なくなっていく。コミュニケーションが必要なくなるとしたら、常にアップデートが行われているということだ。でも、今もこれに近いことを全然できると思う。ピアツーピアを常に行うことだ。自分の中を外に出していけば行くほど、コンピューターがなくても、アプデ作業ができる。とはいえ、膨大な意識の流れをその都度出して行くのはかなり難しいので、何かしらの発展があり、デバグとアプデが常に行われたら、それは意識が無意識かしていくことになる。老子コンピューターのことを早く書きたい。