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「ふかんぜんな生活」 2度目の記録

8年前、大学生の頃に1年だけ私は日野町に住んで、同じように地域おこし協力隊をしていた。
 「日野留学」
それは大学生が1年休学して海外留学に行く、というのの国内版のつもりだった。
鳥取県の山あい、日野町、特に上菅。国内なのに、同じ国と思えないほどの「奇奇怪怪」ってかんじ、それまでの常識で理解できない出来事の数々(当時福岡市内育ちの大学生の私にとって)たった1年の出来事だったとは思えないほど私の中では密度の濃い、謎すぎる日々だった。
その時の「日野留学」ブログ、 ほんとによくわからない変なテンションの漫画?みたいなのが残っている。
私は怖いので半目くらいでしか見返せないけれど、怖くても、その時の実感を、
自分にとってどんなに不思議な体験だったか、みたいなのを思い出せるので
変な漫画つきで残していて良かったと思う。

▼8年前大学生時の協力隊ブログ。封印するか迷う「日野留学」シリーズも掲載

いろいろ縁あって、その強烈な記憶を残した日野町に再び住むことになりもう半年。あの時の半年と今回の半年の密度が全然違う。
経験やできることは少しは増えたのかもしれないが、その分あらゆる面で億劫になり体力も落ちた。
今回はどんなテーマでここにいるのか、半年経って見えてきたこともある。
一回自分のためにも整理したい時期であり、この記事を書く。


**鳥取県の「地域おこし協力隊」の「声」を覗けるマガジン「 #鳥取バードウォッチングマガジン 」の記事として書きます。
協力隊としての活動を発信する、というより「個人」としての協力隊に目をむける ような趣旨もある活動なので、ちょっと個人寄りかもしれませんが記事を書いてみたいと思います。**

今回のテーマ 「ふかんぜんな生活」

前回のテーマが「日野留学」だったように、人間初心者の私は、今回の日々にもテーマが欲しくて、このテーマをつけた(暫定)。

いまだに生活が出来ていない。
一番は、鳥取に来ると同時に飼いはじめたニワトリたち。現在6羽も!
国道沿いの唐揚げ屋さんの横で飼っているが、唐揚げの原材料ではない。
飼ったこともないニワトリに翻弄されてニワトリを怒鳴ったり砂まみれになったり
…ニワトリの生活>人間の生活。
作業場は水道が通ってないし蔓まみれだし、家は寒くて居れないし、なかなか暮らしがままならない。 


憎たらしくもかわいいニワトリたち(秋) 日当たりの良いところに集まる

元々の生活能力の低さもあるけど、あまりにも暮らしが出来ていなくて、不安になったり自分にイライラしたり…
けれど!ふと思い出してみれば「不完全なこと」「出来ていないこと」は、概念として嫌いではない、というか、いつだって私の興味の対象だ。

知らない、出来ない、わからない、からこそ
何かできたら小さなことでも嬉しいし、当たり前のことでも大発見だったりする。

「日野留学」のときも思ったけど、この土地の人にとって当たり前のことが、私にとっては衝撃的な面白さ!だったので、
協力隊に来てイチから暮らしを作る以上、最初から用意されているものがほとんどないのだから、その不足をどう楽しむか、どう作っていくかを楽しむこと、が大事なんじゃないか。
土地が不慣れ以前に、残念なことに、普通の人にできることが出来ない私だったけれど、
〈ごはんを食べる、あたたかくして寝る、人と会話する〉
そのひとつひとつさえ上手くいかないことが多いから、上手く出来たらヤッター!と思う。

そして、足りないものがあったら、都会だったらサービスを利用したりすぐに買ってきたり出来るけど(そもそも最低限の便利さがなかったらもっとキレたりする人もいるだろうけど)、ここの人たちは違う。
ニワトリ小屋スペースが1日で誕生したのはびっくりした。(大感謝)
どこからともなく持ってきてくれる、あるものでなんとかする。
そこが本当に素晴らしい、尊敬するところである。

だから、私も生活の足りてなさをどうするか、私自身の足りてなさをどうするか…「普通こうだよね」に縛られずに一つずつ組み立てていく実験の日々にしたい。

竹細工・バスケタリー・・・ ものを作ること について

8年前にできなくて今できることの一つが「竹細工」。〈竹細工などのものづくりを通した高齢者支援〉が一応私のミッションになっている。
竹細工ができて良かったな〜と思うのは、「野菜が蒸したいけど蒸し器がない!」ってときに蒸すのに使えそうなカゴを鍋のサイズに合わせてすぐに作って実際に蒸して食べてみたり(そしてこれが感動する)
「これが無い!!」って思った時に、結構竹でざっくり作れたりする。クオリティはさておき

「ニワトリかご」鶏を移動させながら下の草を食べさせる。ケンカ中の奴の隔離に役立った

竹細工は高尚な工芸というよりは…昔のじいちゃんばあちゃんは当たり前にやっていたことというか、「身の回りのものでなんとかする」の手段の一つだと思う。

「身の回りのものでなんとかする」ときの”原材料”が手に入りやすいのが地方のいいところ。竹とかの自然素材もそうだし、蔵で眠っていて、整理して捨てられるのを待つ大量のモノなども。

だから、快適で良い生活をするためには買った方が早いけれど、なるべくあえて自分で「身の回りのもので作ってみる」みたいなことをしたい。
なんでもは大変だから、自分の分野的に 竹・布系を中心に。

やったことがなくても想像してつくる、上手くなくてもその歪さを楽しむ

「ものづくり」が活動のテーマだが、ひたすら技術を高めるものづくり、上手い下手・正解があるものづくりにはしたくないなぁ、と思う。

最初に言ったけれど、超個人的に、私はいろんな好きなものを並べて見たときに「拙さ・不完全さ」みたいなものが好きだと気づく。
ちょっと前に「一度も絵の描き方を教わっていない人が絵を描いたら(例えば象の絵を)どうなるか?」みたいな話をした。
象って、鼻を長く描くものだ、ってどこかで教えられたり正解を見てきているからそうなるけれど、もっと純粋なその人の印象で描いたらどうなるんだろう、でも紙の上に"何か"は描かれるはずだ。その想像し得ない”何か”が気になる。
目の前のものに真剣に向かい合ったり、想像したりして、生み出すことは、
特殊技術がなくてもやれば多分皆できるけど意外と普段やらないことなんじゃないかって、興味がある。
今年は、私は「ふかんぜんなもの」をたくさん作りたい。
私が私の暮らしに欲しいと思うものを欲しいと思うままに、
作ったことないけど服だって作る。(布はたくさんあるので)
「ふかんぜん」で良いと思えば、作ってみることが怖くないし、どんなものができるか楽しみになる。
そこに、他の人も巻き込みたい。
人が生み出すものや、一緒に作ることで生まれるものに興味がある。
子どもとも、おじいちゃんおばあちゃんとも、一緒に作りたい。
上手い下手にとらわれなくて良いから、今、身の回りにあるたくさんの素材を使って、
欲しいものを(実用非実用問わず)想像して生み出して、
「ふかんぜんな生活」に磨きをかけていきたい。

ちょっと遅いけど新年の目標でした。


「身近なソザイ研究所」布系を今は特に集めています。さをり織り機もある!

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