見出し画像

現代憲法学批判のための覚書

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回は憲法学についての個人的な考えをお話ししたいと思います。記事中には私個人の偏見や認識の誤りも含まれていると思います。その点のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

序文

ここでは、自民党改憲案および護憲論に対して強い反対意見を持つ私個人の考えを掘り起こすための覚書をしたためます。何故、私は日本国憲法も自民党改憲案も支持しないのか。

反現代憲法学のための覚書

これはプラグマティストとしての、現代日本の憲法論を批判するものです。

憲法の定義は、様々なものがあるとと思いますが、そこには私たち日本国民の、あるいは人類の社会的な信念が反映されています。(憲法と社会的信念)

チャールズ・パースは信念の確定の方法を4つの段階で分類しています。列挙すると固執の方法権威の方法ア・プリオリな方法、そして科学の方法である。私たちは何かが正しく何かが間違っていると判断するにあたりこのような四つの判断方法を用いています。

これまでnoteで、繰り返し述べてきましたように現在の日本国憲法および自民党改憲案はフランスの人権宣言がその基礎にある憲法であり、エドマンド・バークが指摘する通り、フランス革命はヨーロッパの多数の秘密結社ロッジが関わっています。事実として、フランス革命の理念あるいは日本国憲法の理念は、自由と平等、そして人権という概念をスローガンとしており、これはフリーメイソンの自由・平等・博愛という三つの概念に通じています。

私は従って、日本国憲法をメイソン憲法あるいは石工憲法と皮肉的に読んでいる。日本国憲法は、このような結社的権威主義あるいは、彼らが18世紀に想定したア・プリオリな方法、エドマンド・バークの言葉を借りるならば形而上学的な抽象概念にあふれています。(権威主義的なメイソン憲法)

日本国憲法はもちろん科学的な代物でもないし、科学的であることも思考したことがない。日本国憲法は実用的なものであるよりもずっと、秘密結社的な権威主義を前提としている。これはもちろん大日本帝国憲法においてもこのような権威主義が見られます。

言い換えるならば、私たちが日本国憲法に従うのは、科学的で実用的であることを前提としておらず、自分たちにとって、あるいは自分たちの子孫にとって、あるいは全人類のこれからの未来にとって、どのような役割を果たすのかということとは無関係に、そしてそういったことを志向する目的を持たずに、一つの不可侵なもの、異論を唱えてはいけないものとして君臨し続けています。(日本国憲法の指向性の欠如)

このため日本の平和主義は、学問的な意味で平和を志向していません。日本の平和主義は祈りや念仏に近いものであり、どうすれば国際社会が、また日本を取り巻く近隣諸国の関係が平和になるのかを模索していません。もちろん日本の各省庁は日々日本の平和を実現しているために努力されておられますが、しかし本当に日本国憲法の平和主義は、各省庁の諸活動をアシストしているかは疑問であります。むしろ足を引っ張っているのではないかとすら思えます。もちろん平和への祈りは大変重要なものではあり、これがなければ平和への志向もそもそも生まれないの事実ですが、しかしそこには平和のための方法論の検討が存在しません。(平和への志向の欠如)

私はこの意味において、日本国憲法の支持者が大日本帝国憲法の権威主義を批判する態度は一種の同族嫌悪だと思っています。

日本国憲法の権威主義は、憲法学に反映されており、その条文に理論に関する多様な解釈や批判を許しません。何故ならそもそも憲法学は科学的な産物ではなく、権威主義の産物だからです。(憲法学と権威主義)

現代社会は今後AI技術や認知科学、科学哲学の発達とともに様々なテクノロジー分野が発達していますが、日本の国会や裁判所は、その権威主義的存在であるがゆえに、いつまでも、古びたままの姿を保ち続け、最も権威があるがゆえに、最も改善される兆しもなく改善を議論されることもなく腐臭を放っています。このような権威主義が、様々な媒体、マスメディアや教育機関などにも反映されています。(憲法学と国会や裁判所の反科学)

国体の議論

私たちにとって、現代憲法学が権威主義の産物であるとしましたが、このため日本国憲法には、将来への展望も、歴史の中での位置づけも全く明確さを欠いています。今後100年の見通しが全くないばかりか、今後50年、さらには今後10年、今後1年の見通しも持たないのです。未来に対しての指向性がないのは、私たち国民が未来像を持てていないということもありますが、日本の指導者も決して確固とした未来像を持っているわけではありません。そして、このために私たちは延々と戦勝国のアメリカのいうがままの日本の各省庁、政治家をただただ傍観している状態になるわけです。残念ながら現在の憲法論はそうした現実をただただ無為にやり過ごすための存在に成り下がっています。(権威主義ゆえの指向性や体系化・計画性の欠如)(日本国憲法とその改正案の権威主義と日本社会の無気力)

私たちはこのような事実があるのを知っています。そして同時に私たちは完全に自分たちの未来に対して傍観者になっていることもしています。これは私たちの憲法学、日本国憲法や自民党の自民党の憲法改正の議論がすべてメイソン憲法の権威主義を前提としたものだからというのも小さくない理由の一つと考えることができるでしょう。私たちの社会はこのような権威主義がはびこっています。そしてこの権威主義に対する抵抗の手段も場合によっては新しい権威主義の押しつけ、さらにドグマや根拠のないア・プリオリな方法、これならまだいい方ですが、より子供じみた人間の衝動への固執などというものだったりもするかもしれません。(権威主義批判としての権威主義・独断主義・感情論)

箇条書き

憲法学は裸の王様である

憲法学は現存するすべての科学分野によって痛烈に批判されることによって発展しうる――プラグマティストによる憲法論

憲法は公開性を保持しなければならない

日本国憲法の特徴:成文憲法主義

感想

メモ書きなのでとりあえずここまでということで。

関連記事

最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございました。もし記事を読んで面白かったなと思った方はスキをクリックしていただけますと励みになります。

今度も引き続き読んでみたいなと感じましたらフォローも是非お願いします。何かご感想・ご要望などありましたら気軽にコメントお願いいたします。

Twitterの方も興味がありましたら覗いてみてください。

今回はここまでになります。それではまたのご訪問をお待ちしております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?