共産化する以前のポーランドの歴史
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今回は共産ポーランド、ポーランド人民共和国が創設されるまでのポーランドについて検討していきたいと思います。
はじめに
これまでポーランド人民共和国政権下の秘密警察、公安省について焦点を当ててきました。
ここではポーランドの歴史を簡単にポーランド人民共和国政権が誕生するまでを辿っていきたいと思います。前史と呼ぶには期間はかなり長いですが、その点はお気になさらず。
ポーランド王国
ポーランド王国はその創設者の初代ポーランド公ミェシュコ1世から始まります。ピャスト朝と呼ばれるこの王朝は12世紀に分割相続されたためポーランドは分裂状態になりました。13世紀にはモンゴルの侵攻をうけて、国土は荒廃、14世紀に入ると、国王ヴワディスワフ1世が分裂状態にあったポーランドを統一し、後を継いだカジミェシュ3世が難局を乗り切り、多くの成功をおさめます。
カジミェシュ3世に子供がなかったためハンガリー王であるアンジュー朝のラヨシュ1世が国王として迎えられましたが、1382年に没し、末娘のヤドヴィガがポーランド女王として即位します。1386年にヤドヴィガがリトアニア大公ヤギェウォと結婚したため、ヤギェウォ朝(ポーランド王国およびリトアニア大公国)が誕生します。
1572年にヤギェウォ朝が断絶すると、翌年からポーランド王国は選挙王制に移行し、ポーランド貴族が国王の選挙権を握りました。この貴族の中で広大なちょうどを持つ大貴族マグナートが生まれ、マグナートと教会が大きな力を持つようになりました。次第に金権政治が横行し、ポーランド・リトアニア共和国は急速に衰退していきます。
ポーランド分割
ロシアのエカチェリーナ2世は親ロシア派の貴族で元愛人のスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキを王位につけます。プロイセンのフリードリヒ2世はこの動きを見て、オーストリアの神聖ローマ帝国ヨーゼフ2世を誘ってポーランド分割を提唱します。エカチェリーナ2世はこの提案に応じて、1772年に3国は隣接する地域を獲得します。
ポーランドではスタニスワフが立憲君主制を目指しましたが、権力を維持したい貴族はこれに反対し、エカチェリーナ2世と結託しました。ロシア帝国はポーランド王国との戦争に踏み切ります。国王はたまらず反対派に妥協します。この直後、プロイセンとロシアは1793年に二度目のポーランド分割を行いました。オーストリアはフランス革命に巻き込まれ第二次分割には参加できませんでした。
その後再びプロイセン・オーストリア・ロシア3国は1795年に第三次ポーランド分割を行い、ポーランドは残ったすべての領土をすべて奪われて滅亡します。
ワルシャワ公国と二つの国家、そして再び消滅
1807年にフランスのナポレオン・ボナパルトは条約に基づきプロイセン王国からの領土割譲によりワルシャワ公国を建国します。ザクセン王のフリードリヒ・アウグスト1世がワルシャワ公となりました。
ナポレオンがロシア遠征に失敗するとワルシャワ公国はプロイセンとロシアに占領されます。帝政ロシアの衛星国となったポーランド立憲王国は1832年に廃止され、ロシアの直轄統治となりました。プロイセンの統制下におかれた西部のポズナン大公国は、1848年にその地位を奪われ、ポーゼン州として支配されることとなりました。またロシア・プロイセン・オーストリアの保護国としてクラクフ共和国という小さな都市国家もありましたが、クラクフ蜂起によりオーストリア帝国に併合されています。
こうして第一次世界大戦が始まるまで、ポーランドに再び日の目を見ない時代が続いていきました。
過去に取り上げた話として、第一次世界大戦が始まる前の1893年にポーランドではポーランド王国・リトアニア社会民主党という第二インターナショナルに所属する社会主義政党が誕生しています。
ポーランド王国・リトアニア社会民主党はローザ・ルクセンブルクやレオ・ヨギヘスらを指導者とし、革命組織スパルタクス団の母体となり、1918年にドイツ共産党の創設を行っています。
ポーランド第二共和国
第一次世界大戦中、1917年にロシア革命が起こると、続けて1918年にドイツでも革命が起こりました。この動きに好機を見たヨゼフ・ピウスツキはワルシャワに移動し、初代国家元首に就任します。
ピウスツキはウクライナ・ポーランド戦争とポーランド・ソヴィエト戦争に立て続けに勝利し、中部リトアニア共和国を編入、上シレジア地方をドイツと分割し、工業地帯を手中に収めます。
ピウスツキは一時政界を引退しましたが、1926年にクーデターを起こし、1935年まで権力を握りました。
ポーランドは、ソ連ポーランド不可侵条約(1932)とドイツ・ポーランド不可侵条約(1934)を結びましたが、1939年にナチス・ドイツとソ連がポーランドに侵攻します。
第二共和国は崩壊し、ロンドンに亡命政府を設置します。
ポーランド総督府とポーランド人民共和国
1939年にナチス・ドイツはポーランド戦役でポーランドを占領し、ドイツに併合しなかった地域にポーランド総督府を設置しました。ポーランド総督にはドイツの法律家ハンス・フランクが務めています。
1944年6月から開始された赤軍のバグラチオン作戦の成功により、ナチス・ドイツが敗走、7月22日にポーランド国民解放委員会が樹立されました。本部がルブリンに移転され、ルブリン政権と呼ばれました。
8月から10月にかけてワルシャワでポーランド国内軍が蜂起しましたが、ソ連は国内軍を支援せず、国内軍はドイツ軍に降伏します。
スターリンはアメリカ・イギリスが支持する亡命政府を認めず、ポーランド共和国、のちのポーランド人民共和国を建設しました。ルブリン政権は、ボレスワフ・ビェルトを国家評議会議長とし、労働者党書記長をヴワディスワス・ゴムウカが務めました。
ボレスワフ・ビェルト政権下での公安省の話はこれまで紹介してきた通りで、もう少しポーランドの秘密警察の活動について記事を掲載できればと思ています。
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最後に
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