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【知ってはいけないアメリカのネオコン】アーヴィング・クリストル
こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。
今回はアーヴィング・クリストルの英語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。
学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。
序文
ロシアによるウクライナ侵攻においても話題の一つとなっているアメリカの新保守主義、ネオコンを知るうえで押さえておかなければならない人物の一人アーヴィング・クリストルについての記事を共有したいと思います。
アーヴィング・クリストル
アーヴィング・クリストル(1920年1月22日 - 2009年9月18日)は、「新保守主義のゴッドファーザー」と呼ばれたアメリカのジャーナリストである。雑誌の創刊者、編集者、寄稿者として、20世紀後半の知的・政治的文化に大きな影響を与えた。死後、デイリー・テレグラフ紙で「20世紀後半で最も影響力のある知識人」と評された。
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若年期と教育
クリストルは、東欧から移住してきた非敬虔なユダヤ人、ベッシー(メールマン)とジョセフ・クリストルの子としてニューヨークのブルックリンに生まれた。
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1936年にニューヨークのブルックリンにあるボーイズ高校を卒業し、1940年にニューヨークのシティカレッジで学士号を取得した。歴史学を専攻し、小規模ではあったが声高なトロツキー主義の反ソヴィエトグループの一員であり、最終的には「ニューヨーク知識人」として知られるようになった。この会合で、歴史家のガートルード・ヒメルファーブと出会い、1942年に結婚した。二人の間には、エリザベス・ネルソンとビル・クリストルという二人の子供がいた。
兵役
第二次世界大戦中は、第12機甲師団に所属し、戦闘歩兵としてヨーロッパに派遣された。
経歴
クリストルは「文化的自由会議」に所属していた。1947年から1952年まで『コメンタリー』誌の編集者エリオット・E・コーエン(訳注:ユダヤ人)(今日の雑誌の執筆者であるエリオット・A・コーエン(訳注:ユダヤ系アメリカ人の政治学者で、外交問題評議会のメンバー)と混同しないように)の下で執筆した。1953年から1958年まで、スティーブン・スペンダーとともに、英国を拠点とする『エンカウンター』の共同創設者兼寄稿者、1959年から1960年まで『ザ・レポーター』の編集長を務めた。また、1961年から1969年まで出版社ベーシック・ブックスの副社長、1969年から1987年までニューヨーク大学のヘンリー・ルース都市価値教授、1965年から2002年まで『ザ・パブリック・インテレスト』の(最初はダニエル・ベル、その後ネイサン・グレイザー(訳注:ユダヤ系アメリカ人の社会学者)と)共同創設者兼共同編集者であった。1985年から2002年まで『ザ・ナショナル・インテレスト』の創刊者兼発行人。中央情報局(CIA)が文化自由会議に資金提供していることを示す情報をランパートが発表し、それが他でも広く報じられた後、クリストルは1960年代後半に退職し、アメリカン・エンタープライズ研究所に所属するようになった。
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反スターリン主義左派の意見を提示した
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『エンカウンター』はCIAから資金を受けていた
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アメリカ芸術科学アカデミーのフェロー、外交問題評議会のメンバー、アメリカン・エンタープライズ研究所の名誉フェロー(1972年から準フェロー、1977年から上級フェロー、1988年から1999年までジョン・M・オリン特別研究員を歴任)である。ウォール・ストリート・ジャーナル紙の寄稿者委員として、1972年から1997年まで毎月コラムを寄稿。1972年から1977年まで、全米人文科学基金の理事を務めた。
1978年、クリストルはウィリアム・E・サイモンとともに教育問題研究所を設立し、1990年にマディソン・センターと合併して教育問題マディソン・センターとなった。
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死去
2009年9月18日、肺がんの合併症のため、バージニア州フォールズチャーチのキャピタル・ホスピスで死去(享年89歳)。
主な受賞歴と栄誉
2002年7月、ジョージ・W・ブッシュ大統領から文民として最高の栄誉である自由勲章を授与された。
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アイデア
1960 年代後半から 1970 年代にかけて、新保守主義者は冷戦を憂慮し、その自由主義が急進主義に転化しつつあるとして、アーヴィング・クリストル、ノーマン・ポドレツ、ダニエル・パトリック・モイニハンら多くの新保守主義者が民主党に強い反共外交政策を継続させようと考えた。この外交政策は、ソ連の人権侵害を利用してソ連を攻撃しようというものだった。これが後にデタントと呼ばれるニクソンの政策につながっていく。
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1973年、マイケル・ハリントンは、民主党を支配する政治的・文化的態度に不満を持ち、新しい形の保守主義に向かうリベラルな知識人や政治哲学者を指して、「新保守主義」という造語をつくった。ハリントンは蔑称のつもりだったが、クリストルは『公益』に代表される思想や政策を適切に表現していると受け止めた。例えば、リベラルとは異なり、新保守主義はリンドン・B・ジョンソンによって後援された偉大なる社会のプログラムのほとんどを拒否し、伝統的な保守派とは異なり、フランクリン・D・ルーズヴェルトによって制定されたより限定的な福祉国家を支持している。
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1979年2月、クリストルは『エスクァイア』誌の表紙を飾った。そのキャプションは、彼を「アメリカで最も強力な新しい政治勢力である新保守主義の名付け親」と位置づけた。この年、『新保守主義者たち:アメリカの政治を変える男たち』という本も出版された。著者のピーター・スタインフェルスはハリントン同様、新保守主義に批判的であったが、その政治的・知的影響力の拡大に感銘を受けていた。クリストルの回答は、「真実の告白—おそらく唯一の新保守主義の自白」というタイトルで掲載されている。
新保守主義はイデオロギーではなく「説得」であり、原理や公理の大要ではなく、政治についての考え方であるとクリストルは主張する。新保守主義は、ロマン主義的というよりは古典的な気質であり、政策においては実践的で反ユートピア的である。クリストルの最も有名な口癖の1つは、新保守主義者を「現実に襲われたリベラル派」と定義している。これらの概念は、今日に至るまで、新保守主義思想の中核をなしている。
彼は、「近代民主主義の生存のための必須条件」である経済成長の基礎として、サプライサイド経済学(訳注:マクロ経済学の一派で供給側の活動に着目し、「供給力を強化することで経済成長を達成できるとする)の美徳を提唱する一方で、いかなる経済哲学も「政治哲学、道徳哲学、さらには宗教思想」によって拡大されなければならないと主張している。
彼の初期の著書の一つである『資本主義への二つの喝采』は、資本主義、より正確にはブルジョア資本主義が二つの喝采に値すると主張している。一つは、人々の条件を改善することによって、「極めて単純で物質的な意味で」機能するからであり、もう一つは、「個人の自由を大きく向上させる」ものだからである。これらは決して小さな成果ではなく、資本主義だけがそれを提供できることを証明している、と彼は主張する。しかし、資本主義は、個人と社会秩序に大きな「精神的負担」を課している。それは、個人の「『実存的』な人間的要求」を満たさないため、社会秩序の正当性を脅かす「精神的な倦怠感」を生み出すのである。クリストルが理解する新保守主義の特徴は、何よりも、潜在的な第三の歓声を差し控えることである。
記事
「他人の神経」(ウィリアム・フェリーとして)『エンクワイリー』1943年5月号
「ジェームズ・バーナムのマキャベリアン (ウィリアム・フェリーとして) 『エンクワイリー』1943年5月 (ジェームズ・バーナムの『マキャベリアン:自由の擁護者たち』の書評)
「ケストラー:混乱についてのノート」『ポリティクス』1944年5月号。
「不屈のファビアン」『ニューヨークタイムズ書評』 1952年8月24日(マーガレット・I・コール編『ベアトリス・ウェッブの日記:1912-1924』の書評)
「人と思想:ニコロ・マキアヴェッリ」『エンカウンター』1954年12月号。
「アメリカ知識人と外交政策」『フォーリン・アフェアーズ』1967年7月号(『アメリカにおける民主主義思想について』より再出版)
「冷戦の戦士の回想」『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』1968年2月11日号(『ある新保守主義者の反省』として再録)
「徳がその愛らしさを失うとき」『パブリック・インタレスト』1970年秋号(『アメリカの民主的思想について』『資本主義への二つの喝采』に再録)
「ポルノ、わいせつ、検閲」『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』1971年3月28日号(『アメリカの民主的理念について』『ある新保守主義者の反省』より再出版)
「ユートピアニズム:古代と現代」『インプリムス』1973年4月号(『資本主義への二つの喝采』に再録)
「アダム・スミスと資本主義の精神」『今日の大思想』(編著 ロバート・ハッチンズ、モーティマー・アドラー編)1976年(『新保守主義者の反省』として再出版)
「トロツキスト回想録」『ニューヨークタイムズ・マガジン』977年1月23日号(『新保守主義の反省』に再録される)。
「知識人の敵対文化」『エンカウンター』1979年10月号(『新保守主義の反省』に再掲載)
「規制の隠れたコスト」『ウォール・ストリート・ジャーナル』誌
著書
著書
『アメリカにおける民主主義の理念について』ニューヨーク:ハーパー社、1972年
『資本主義に二つの声援』1978年
『ある新保守主義者の反省:振り返り、先読み』1983年
『新保守主義:ある思想の自叙伝』1995年
『新保守主義者の説得:エッセイ選集』1942-2009。ニューヨーク:ベーシックブックス
『ユダヤ人とユダヤ教について』バーンズ&ノーブル、2014年
編著
『経済理論の危機』(ダニエル・ベルと編著)ニューヨーク:ベーシック・ブックス、1981年
寄稿
『経済学における合理主義』(第12章『「経済理論の危機」ダニエル・ベルと編著。ニューヨーク:ベーシック・ブックス、1981年
感想
これまで何度も指摘した通りアメリカのネオコンはユダヤ系の反スターリン派・トロツキストが保守派への転向を宣言したことがその起源となっています。思想的には伝統的な保守思想とは大きく異なり、むしろそれを否定し、フランクリン・ルーズヴェルト政権時代のアメリカを受け継ぐものであり、民主党とも非常に親和性があります。
ですのでネオコンは保守を起源としているわけではなく、共産主義思想であるということがよく言われています。私もそれに合意します。ネオコンとは元々はトロツキストであったこと、そしてCIAから活動資金を得ていたことなどは繰り返し指摘する必要があると思われます。日本ではこの点はほとんど議論されません。
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最後に
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