【解説】ポール・ウォーバーグ|アメリカ中央銀行、連邦準備銀行創設者
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今回はポール・ウォーバーグの動画を作成しましたの、その動画の紹介になります。もしかすると事実に反する内容もあるかもしれませんので、エンターテイメントだと思って、疑いの目をもってご視聴いただければ幸いです。
ポール・ウォーバーグ
みなさんこんにちは。
今回は、アメリカ連邦準備制度の父と称される、ポール・ウォーバーグについて見ていきたいと思います。
以前に、クーン・ローブ商会とジェイコブ・シフの動画でも、ポール・ウォーバーグについて、少し取り上げています。
――ポール・ウォーバーグはジェイコブ・シフと義理の兄弟の関係でしたよね。
興味がありましたら、そちらもご参照ください。
それでは、ポール・ウォーバーグの生い立ちについて見ていきましょう。
ポール・ウォーバーグは、1868年にドイツのハンブルクでユダヤ系銀行家、ウォーバーグ家に生まれました。
――ウォーバーグには、たしか弟がいましたよね。
そうですね。
ウォーバーグには、以前に紹介した弟のフェリックス以外にも、他に美術史家のアビー・ウォーバーグと、銀行家の兄であるマックス・ウォーバーグという有名な兄弟がいます。
マックス・ウォーバーグについては、いずれ取り上げたいと思っています。
ハンブルクの学校を卒業後、ハンブルクの輸入業者であるサイモン・ハウエルの元でビジネスの基礎を学びました。
ウォーバーグは、更に短期間、ロンドンのサミュエル・モンタギュー商会、パリのロシア外国貿易銀行などに勤務しました。
1891年に、ウォーバーグの曾祖父が、1798年に設立した銀行、MMウォーバーグ商会に入りました。
ウォーバーグはその年の冬の間に仕事を中断し、世界旅行を行っています。
その後、ウォーバーグは、MMウォーバーグ商会とパートナー関係になります。
1895年に、ウォーバーグは、ニューヨークの投資銀行クーン・ローブ商会の創業者であるソロモン・ローブの娘、ニーナ・ローブとニューヨークで結婚しました。
2人は、ジェームズとベッティーナという2人の子供を授かっています。
ウォーバーグは、ドイツ金融業界で大きな影響力を持っていました。
頻繁にニューヨークに出張した後に、1902年に、ニューヨークのジェイコブ・シフが取り仕切るクーン・ローブ商会のパートナーとなります。
ウォーバーグの弟であるフェリックスが、シフの娘と結婚し、ポールとフェリックスは長年にわたってクーン・ローブ商会と関わり続けました。
また、ジェイコブ・シフと同じく改革派ユダヤ教のエマヌエル寺院の会員となります。
ウォーバーグはアメリカにおける中央銀行創設の提唱者としても知られるようになっていきます。
当時のアメリカ人の多くが、ウォーバーグがアメリカ中央銀行創設の最大の原動力と見做していました。
その頃のアメリカの銀行家や政治家たちの一部では、銀貨の無制限鋳造を要求する、自由銀運動が活発化していました。
アメリカの銀行家で外交問題評議会の議長のラッセル・レフィングウェルは、そうしたさなかに、ウォーバーグは、ヨーロッパの近代的な銀行理論の実践を説くことに尽力したと言っています。
一方、保守的な雑誌であるセンチュリー誌では、内気で繊細なウォーバーグが、1億人に自分の考えを押し付けたと批判的に論じています。
ニューヨーク到着後に、ウォーバーグは中央集権化が不十分なアメリカの銀行システムに、批判的な論文を書きましたが、不完全な英語と新参者であることを自覚していたため、4年間にわたり、その論文を放置していました。
1906年に、中央銀行システムを提唱していた、ユダヤ系でコロンビア大学教授、エドウィン・セリグマンの晩餐会で、彼に自身の金融システムの考えと知識を明かしました。
「自分の考えを国に伝えるのは君の義務だ。」
セリグマンは、彼を称賛し、こういったと言われています。
その直後、ニューヨークタイムズはウォーバーグの「銀行システムの欠陥と必要性」という論文を掲載します。
アメリカの金融システムについてウォーバーグは次のように論じています。
「アメリカは実際のところ、ヨーロッパのメディチ家の時代、アジアで言えば、恐らくハンムラビの時代に到達していたものとほとんど同じシステムである。」
このような発達が遅れた最大の理由を、銀行の約束手形を再割引して、将来の支払いの約束を現金と交換することを容易にする、中央銀行が存在しなかったことと考えていました。
ウォーバーグは、ドイツ帝国銀行のような中央銀行システムがあれば、ある銀行の過剰な準備金を、他の銀行で不足している準備金に当てることが容易になると考えました。
学校で習った、現在の近代化された中央銀行システムのモデルですね。
ウォーバーグの考えは、1907年の金融恐慌の後に広まり、その後ウォーバーグは、「修正された中央銀行のための計画」、「アメリカの連合準備銀行」という論文を発表します。
ウォーバーグは、大学やさまざまな学会が主催する会議に出席しました。
1908年に、共和党上院議員、ネルソン・オルドリッチから、通貨改革の相談を受けるようになりました。
ちなみに、オルドリッチの娘のアビー・オルドリッチは、ジョン・ロックフェラー2世の妻であることが知られています。
――ウォーバーグ家と、ロックフェラー家の間で、利害が一致していたと考えることができますね。
1910年2月に、ウォーバーグは、ウェルズ・ファーゴ社の取締役に就任します。
同じころ、オルドリッチは、ウォーバーグをジョージア州のジキル島で開かれた、有力銀行家たちとの秘密会議に招待し、中央銀行創設のための草案が作成されました。
センチュリー誌のハロルド・ケロックは、このように書いています。
ウォーバーグがたった一人で活動を始めてから5年後に、彼のアイデアは、オルドリッチ法案という形で議会に提出された。
ウォーバーグは、ハンブルクのM・Mウォーバーグ商会とのパートナー関係を保ったまま、1911年にアメリカに帰化します。
オルドリッチ法案は通りませんでしたが、後のオーエン・グラス法案が連邦準備法になりました。
学者のエルマン・ウィッカーはこういっています。
「ニューヨークの銀行家たちは、自分たちがそれをコントロールするということ以外は、全ての望みをかなえることができた。連邦準備法は、グラス議員と同じかそれ以上に、オルドリッチ上院議員に負っている。」
1914年に、ウォーバーグは連邦準備制度理事会のメンバーに任命されたため、ウェルズ・ファーゴ社の取締役はジェイコブ・シフが引き受けました。
1921年、外交問題評議会の設立時に、理事に就任し、1924年からは諮問委員会の会長をつとめます。
以前の動画で紹介していた外交問題評議会はここでも関わってくるんですね。
同年、ニューヨークの国際容認銀行を設立し、初代会長に就任します。
1929年に、国際容認銀行はマンハッタン銀行に買収されましたが、ウォーバーグは合併後に会長となっています。
マンハッタン銀行は後に、チェース・ナショナル銀行と合併し、チェース・マンハッタン銀行となり、1969年から1981年まで、デーヴィッド・ロックフェラーが会長をつとめています。
――ウォーバーグ家とロックフェラー家は蜜月の関係だったんですね。
そうですね。
デイヴィッド・ロックフェラーもウォーバーグと同じく、外交問題評議会の会長に就任していますからね。
1932年に、ウォーバーグはニューヨークの自宅で亡くなりましたが、当時彼は、マンハッタン銀行の会長で、マンハッタン信託銀行、ニューヨーク農場融資信託会社、ボストン第一ナショナル銀行、バルチモア・オハイオ鉄道、ユニオン・パシフィック鉄道、ロサンゼルス・ソルトレイク鉄道、ウェスタン・ユニオン電信会社などの取締役をつとめていました。
――凄い肩書ですね。
ウォーバーグの息子のジェームズは、フランクリン・ルーズヴェルト大統領の初期に、財務顧問をつとめています。
今回の話はここまでとなります。
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最後に
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