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【忘れ去られた日本史】ゴンゴタ協定(1920年)
こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。
今回はゴンゴタ協定の英語版Wikipediaの翻訳をします。
翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれません。正確さよりも一般の日本語ネイティブがあまり知られていない海外情報などの全体の流れを掴めるようになること、これを第一の優先課題としていますのでこの点ご理解いただけますと幸いです。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。
翻訳において、思想や宗教について扱っている場合がありますが、私自身の思想信条とは全く関係がないということは予め述べておきます。あくまで資料としての価値を優先して翻訳しているだけです。
ゴンゴタ協定(1920年)
1920年のゴンゴタ協定(日本語: 緩衝国建設覚書)は、トランスバイカルにおけるロシア内戦の一里塚であった。1920年7月15日、ゴンゴタ駅において、アレクサンドル・クラスノシチョーコフとゲンリッヒ・エイヒェ(※ラトビアのリガ出身)を団長とする極東共和国代表団と由井光衛率いる日本遠征軍との間で最終合意された。極東共和国の要求は、日本軍が保持する地帯からの白軍部隊の退去と、ソヴィエトと日本との間の敵対行為の終結であった。
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アレクサンドル・クラスノシチョーコフ(ユダヤ人)
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由比光衛
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日本軍はこの地域からの撤退を延期しようとしたため、極東共和国当局にとってこのプロセスは容易なものではなかった。最終的に、日本軍は極東共和国軍とパルチザンに対する軍事行動を停止することに同意した。チタの西に立ち入り禁止ラインができ、極東共和国がチタを奪取する最終作戦を開始するのに役立った。
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日本の高柳保太郎(中央右)と
極東共和国のウラジーミル・セルゲイヴィチ・シャトフ(中央左)。
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高柳安太郎
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ウラジーミル・セルゲイヴィチ・シャトフ(ユダヤ人)
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最後に
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