舞台から見える日常~いわき総合高校演劇部自主公演「ちいさなセカイ」(2015年2月28日・いわき芸術文化交流館アリオス小劇場)


舞台奥に白いスクリーンがあり、さまざまな色のTシャツが万国旗のようにつり下げられている。正面には斜めに机が配置されている教室、下手奥には運転座席と助手席の座席が一段高く置かれ、上手奥も一段高くカラオケBoxがあるような部屋。下手前方・上手前方にもそれぞれ演技する空間が確保されていて、33名いる高校生たちの機微を見分けることができる。話の軸は6年ぶりに開催される文化祭の出し物をどうするか進んで行くが、そこから7つの「ちいさなセカイ」が見える。


10数名の生徒が教室に出て、文化祭の出し物を話し合う。実行委員が説明しているが、3~4名のグループがそれぞれの話題に夢中になり、相手の話を聞く感じではない。ときどき潮が満ちるように、いくつかのグループが興味を示すのだが、方向性が一致せず、すぐ潮が引き、刹那的に時が流れていく。


オープニングで海岸部にあったJR常磐線富岡駅近辺の映像が流れ、エンディングで内陸部の進入禁止区域近くの映像(筆者注・楢葉町のものと思われるが不明)が流れる。津波の爪痕が残ったままの富岡と、津波の被害はないはずなのに草が伸び放題の居住制限区域の映像がスクリーンに流れる。そのことをセリフに変えての直接的言及は、ない。


Chapter1~Chapter7に示される「ちいさなセカイ」とは、

・体育会系のノリとそれ以外のノリと合わない

・ツイブロ(ツイッターで発言をブロック)された

・つきあいで友人の体を叩くことへの違和感を持ちつつ、何も反論できない自分

・級友の悪気ない失敗が許せない。でも自分も同じような失敗をしている

・本命チョコをもらったはずの男子が、いつの間にか別の子に手を出している

・もとの住所を離れている同士悩みを共有できるはずなのに、別の子に相談している

・ごはんを食べる約束をしていたはずなのに、別の子と食べている--。


回りから見れば「ちいさな(狭い)セカイ」である。「取るに足りないようなことで悩まなきゃいいのに」と言われてしまうことである。でも当事者にとっては切実な問題であり、「ノリが合わないこと」「ブロックされること」「住居を離れること」は侵されたくない領域でもあり、矛盾するけど理解してほしい領域でもあり、3~4人のグループが離れては付き、付いては離れるという状況が続いていることを、舞台を通じて再現される。


ちいさなセカイは教室の内外で同時進行している。彼女ら彼らにとって、たまたま遭遇してしまったことである。それゆえ

「文化祭の出し物がどうやらお化け屋敷になるらしい」

という舞台の方向性が、大きなうねりにならないまま過ぎていく。


「3年おきに開かれる文化祭だが、前回は東日本大震災の影響で開催されなかった」

「今回の文化祭は仮設校舎で行われるので、いろいろと制限がある」

「食品を扱うのは、空気に触れて(線量を気にしてしまうので)できません」

というしばりがセリフにさらっと出てくる。舞台が進むにつれ「しばりがかかる日常」に、いちいち驚かなくなってしまっている状況に気づく。そのような日常に声を荒げる者、なじる者、演説をぶつ者がいない。言うだけでは何の解決にもならないので。


東北大会(2014年12月・北上市文化交流センターさくらホール中ホール)を観て(筆者注・袖からでは見切れてほとんど舞台がわからなかったが)、ものすごい情報量だと思ったのと、

「でも、内容を盛りすぎじゃないか?」

というのが当時の率直な思いだった。ただし今回の自主公演を75分観て感じた舞台は、どこかのエピソードだけを強調するものではないし、カットするものでもない。

「私たちのすべてを見てほしい。そして感じてほしい」

という思いが伝わってきた。


部員たちを支えてきたいわきの人々の前で上演した。言い換えれば

「いつもの33名の姿をアリオス小劇場で観劇することができた」

ひとときだった。

(2015年2月28日・いわき芸術文化交流館アリオス小劇場・昼公演)


▽この記事は2015年3月5日にFacebookで公開しました。
▼この記事は2022年3月5日にnoteで公開しました。

▽公開にあたり、いわき総合高校演劇部サイドから確認を取っていることを申し添えます。

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