名取北「鼻と糸トンボ」(2013年12月22日・仙台市広瀬文化センター)

 2013年に名取北高演劇部の上演を5回見ました(盛岡・名取・長崎・大河原・仙台)。去年の秋田から夏の長崎までの変化と、今回の大河原から仙台の変化を見たとき、後者の方が大きく、かつ安保先生と部員たちががっちりかみあった感じが伝わってきました。

 大河原の地区大会で見たとき(「鼻と糸トンボ」というタイトルは直前に決まったと聞きました)よりも「鼻=優」「糸トンボ=今野君」という図がはっきりして、わかりやすくなりました。役者は去年の「好きにならずにはいられない」の型を踏まえつつ1人1人がスキルを上げていました。スタッフの思い切りも増し、キャストの迷いを押した感じも伝わり、去年の東北大会よりパワーアップしたことが客席にもわかりました。意図的に音響のレベルを上げ(それは役者の技量ギリギリのところもありましたが)、それ以外すべてのセリフがクリアに客席講評まで聞こえてきたのは、13校を通じて名取北だけでした。ただし「好きにならずにはいられない」の型が見えてしまったこと(それは型を持っている裏返しでもあるのですが)。もう一つは地区大会の時にあったアクの強さが、よくも悪くも薄くなってしまった点がどう評価されるのだろうという点が気になったのです。

 審査員講評で篠原久美子さんはこう言いました。
「『美しいもの、純粋なもの』と『人の葛藤』を表現として比べた時、後者が貴く、完成度が高い。そして『高校演劇』がレベルアップするには、いずれ2500年という演劇の歴史と戦う時期が来るのだ」。

 青森中央を絶賛した講評の後、名取北の順番が回ってくるまで、凍り付くような思いだったと想像します。けれども佐々木久善さんと加藤正信さんが褒めてくれた。篠原さんもほめた。いばらき総文の代表を決めるまで、ものすごく激論だったことが想像できるのです。

 舞台を見ている途中から、新約聖書の一節を思い出しました。
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(コリント人への第一の手紙13章13節)。

 それを体現しているのが今野君の姿で、病気の彼がマサエや優に尽くす姿に、聖書に出てくるイエスや『走れメロス』(太宰治)に見るような、自己犠牲の姿を見たのです。
 
 優がそのことに気づいたから、彼は今野君のために全力で走り、無心である決断をするのです。マサエがそこに気づいたから、今野君を支える側に回るのです。

「美しいもの、純粋なもの」
は名取北の舞台にあり、篠原さんが言う
「演劇の神様は幼子の形をしている」
のも、名取北の舞台に見えたのです。

 本当に「怒り」や「エネルギー」は「純粋さ」にかなわないのでしょうか。いや、「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネによる福音書1章5節)と聖書に書かれているではありませんか。

 優が決断するまでの葛藤が描かれていれば、なお舞台に深みが出たのかもしれません。でも緞帳が下りた後、5年前の「タマゴの勝利」に通じる、ほわっとした気持ちに満たされたことは確かだったのです。
(2013年12月22日、仙台市広瀬文化センターにて)

▼もとの文章は2013年12月23日に「gooブログ『番頭通信』に記しました。
▼非公開を前提に記しましたが、名取北高校演劇部・安保先生の強い要望により、文面を一部修正し、12月25日に公開しました。
▼2022年3月25日、noteに公開しました。

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