渋谷アピア
のマスターが亡くなった。
店は移転して今は碑文谷のアピア40。
でマスターは息子の玲育氏。
のFacebookの投稿で知った。
悲しい。
もう一度会いたかったなあ。
でも、長い闘病生活、お疲れさまでした。
ゆっくり、ゆっくり、休んでください。
「アピアのマスター」とか「伊東さん」とか色々呼び方はあると思うけど、私にとって世にマスターは幾万人いれど「マスター」と言えば伊東哲男であり「ママ」と言えば「アピアのママ」なの、今でも。
ノルマが〜、とか、説教が〜、とか、色々、あったけれど、私がアピアに出なくなったのは「自分が客が呼べないから」の一言に尽きる。だから「客が呼べるようになったらいつか出してもらおう」なんて、故郷に錦を、みたいな子供っぽい夢を、実はずっと持っていた。
私なんかよりすごい人、いっぱい出てるからなぁ。
初めてアピアに行ったときのチケットを、取ってある。
高校の2年上の先輩がオーディションに受かって、渋谷のライブハウスに出るからきてよ!てなことで埼玉の大宮くんだりから観に行った。その頃の昼の部のチケット代は1000円だって! いい時代だなぁ。高校生にも優しいよ。
夜でも1500円とかだった気がする。だがこの頃の私の喫茶店アルバイトの時給は660円とかだった気がする。
そう思うと妥当なのか?
年がバレバレだけど、この時私は15歳7ヶ月。なんとー。
そして即、「私もここに出てみたい」と思ってしまったのだ。むぼー。曲も無いのに。
オーディションを受けるにはオリジナル曲2曲が必要、とのことで作って応募。ギターを始めて半年だってのに。むちゃー。すごい無茶するな、我ながら。モノを知らないとは恐ろしいことだよ!
でもだがしかし。
高1の2月だったかな、めでたくオーディションを通過し、渋谷アピアで歌い始めた私なのでありました。(ストックなんてないから、オーディションを通過してから慌ててライブの日までに曲を用意した)
オーディションでやった1曲はこちら。
まぁ、なんとなく今も変わってないな、と。この曲のこの歌詞は私が歌に思うところの下地なのかもしれない。
ま、置いといて。
高2の時、発熱して一度だけ(振り返るとこの1回だけかも、自身のライブのキャンセル。)ライブに穴を空けてしまったことがあり、どうしても起き上がれず母親にアピアに電話をしてもらったことが今でも思い出すと恥ずかしい。
学校なら平気なのに。
あくまでもライブハウスは自分自身で連絡をしなければいけないところなのだ!と思っていたから。
高校時代はライブは昼の部にやることが多かったんだけど(なにしろ大宮から来ていたし私もお客も高校生)、夏休みや冬休み等は夜の部も出させてもらったり、アルバイトもたまにしたな。そのバイトの傍ら、アピアのレジェンド達(南正人、三上寛、友川かずき、遠藤ミチロウなど)のエネルギッシュなライブを(タダで)観れたのは今にして思うと贅沢だったんだな。
…でもその頃はまったくそう思ってなかったんだけど。
アングラやフォークの歴史に疎い、普通の高校生だった。
高3の時に作る側も出る側も高校生、という音楽イベント、横浜High School HOT WAVE Festivalつーのがあって、それの決勝に進んで「しまった」ことがある。ホントは学校で友達と組んでたバンドで出たかったんだけど(私は曲を作ってギター・コーラス)、弾き語りのと2本「テープを」出して弾き語りの方が選考に通って「しまった」のだった。
「テープ選考」→「関内ホール予選」を経て、決勝は横浜スタジアム。バンドブーム全盛期、決勝出場は全部で18組だったかなー? バンド以外は自分とギター弾き語りの男性デュオの2組のみ。ピンで出るのは自分ひとりだけで、周りはワイワイやってて、はじめから終わりまで結構孤独だった(笑)
当日、マスターはまだ小学生だった息子二人を連れてわざわざ横浜スタジアムに観に来てくれたのだ。
出るまでも色々なアドバイスくれたりした。結局なにも賞は取れなかったんだけど。ちなみにその大会のゲストはバービーボーイズの杏子さんで、バービーのファンだった私はなるべく近付こう、とステージ袖からナマ杏子を観ていた。よい思い出です。
結局十年位はアピアに出てたと思う。私も色々あってライブから離れている間に、ママは亡くなり、そしてアピアは渋谷から移転することに。
ご無沙汰していたけれど、移転さよならライブに呼んでもらった。そして十年位前かな、火取さんに呼んでもらって碑文谷のアピアに挨拶だけだけど、行ったことがある。
マスターは心臓のバイパス手術を終えた後だったけど元気そうに見えた。でも、昔より声が小さくなってて、それだけはショックに感じた。でも、会えて嬉しかったし、顔を見てとても喜んでくれて嬉しかった。
その日はライブではなく新年会、かなにかイベントの日だったんだけど、まだお客さんが来る前で、マスターが突然、「しえり、なにか歌ってよ」。
ええ〜っっ(汗)
わかった、せっかくだからじゃあ、と咄嗟に出てきたのは「BRIGHT」という曲。
碑文谷アピアのステージで歌った。ちゃんとマイクをセッティングしてくれた。お洒落で広くなったけど、空気感は渋谷アピアのソレだった。
渋谷アピアの移転さよならライブでもやった曲。
アピア、というかライブを離れていた頃の自分が、再び、いつかライブをやることになるだろう自分のために作った曲。会えない友達や会えない場所を思い浮かべて作った曲。
『いつもの曲がり角を何年かぶりに曲がった僕は
少し緊張して懐かしいドアを開いた
まるで昨日も会っていたかのように
君はいつもの笑顔で
軽く手をあげて僕に応えてくれた』
歌い出しの歌詞そのままに、マスターはまさにそんな笑顔で、うれしそうに聴いていてくれた。
会ったのはそれが最後かな。
その後は特に接点もなく…だったんだけど、2年前、南正人さんが亡くなった時に私が書いたFacebookの記事を読んだ、とマスターから友人申請が来た。
それからまたFacebookの場での交流が再開した。
マスターはたまにイイネ!やコメントを残してくれて、うれしく思った。
最初の、友人申請ありがとう、お元気ですか、という私からのお礼メッセージに、マスターが真摯に返してくれた言葉。
私はそれを読んだ時、泣いてしまった。
今また、読み返して泣いている。
一生大事にすると思う。
渋谷アピアが無かったら、マスターとママがあの店を作らなかったら、あの二人が存在しなかったら、今の私は絶対に存在しないのです。
たくさんの人との縁を貰いました。
たくさんのうたも。友達も。愛も。
ありがとう、マスター。ありがとう。これからも。
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