愛し愛された、中村北斗のフットボール人生のこれまでを振り返る。
アビスパ福岡というクラブへの想いが強い選手は誰か、と聞くと皆さんは誰を思い浮かべるだろうか。
最初に出てくるのはやはり、広島や浦和といった当時J1の強豪クラブだったチームからのオファーを断り続け、アビスパ一筋を貫いている城後寿か。
ただ、もう1人忘れてはならない男がいる。この男も城後に負けないほど、アビスパへの想いを抱いている。
中村北斗。今年の1月31日に現役引退を発表し、本日、12月6日の金沢戦で引退セレモニーを行うその人である。
中村北斗、プロ入りまでの道のり
長崎で生まれ、8歳でサッカーを始めた北斗。ポジションはFWだった。中学生になるとプロ志向の父親の意見もあり、クラブチームの長崎FCでプレー。長崎県選抜に選ばれるほどの選手だった。
2001年、当時の高校サッカー界の中でも強豪だった国見高校へ進学。そして1年時の夏にFWからボランチにコンバートされると、地方予選時はレギュラーでなかった彼が、全国サッカー選手権大会という輝かしい舞台でスタメンの座を掴んだ。
在籍時の国見は1つ上の柴崎晃誠、渡邉大剛や同学年の平山相太、兵藤慎剛ら、のちのJリーガーを非常に数多く擁し、猛威を振るった。なんと、3年間で全国の舞台で優勝5回、準優勝2回。戦後の高校サッカー選手権の長い歴史のなかでも、決勝戦に3年連続でフル出場したのは中村北斗ただ1人である。
プロサッカー人生の序盤
U-18日本代表にも選ばれ、高卒でのプロ入りを目指していた北斗にアビスパがオファーを出したことが縁となり、2004年。当時J2のアビスパの一員として、プロサッカー人生がスタートした。
1年目は出場機会を得られず。それでも、心の中では監督に対して「早く出せよ」と思うほど自信に溢れていた。そしてすぐに結果に結びつく。
翌2005年、開幕戦の鳥栖戦でJリーグ初スタメンを飾ると、第2節の水戸戦では2得点。
ここから一気に、階段を駆け上がっていく。
6月にはU-20日本代表の一員として、ワールドユースで全4試合にフル出場。
リーグ戦でもアビスパの主力として、J1昇格に導いてみせた。
アビスパにとって5年ぶりのJ1の舞台となった2006年も北斗は主力として活躍を続け、U-21日本代表にも招集された。
順風満帆。そんな4文字熟語が浮かぶようなサッカー人生だが、11月21日、U-21日本代表の韓国戦。日の丸を胸に付けた輝かしい舞台で悲劇が訪れる。
相手との接触で、右膝前十字靭帯損傷という全治6ヶ月の大怪我を負ってしまったのである。
そしてここから、北斗と怪我との、長い長い戦いが始まることとなる。
さらにこの年、アビスパは降格。それでも北斗は、Jリーグの優秀新人賞を受賞した。
あとの2人が藤本淳吾(最優秀新人賞)と内田篤人というその後の日本代表選手であったことからも、当時の中村北斗がいかに凄かったかが分かるだろう。
リハビリを重ね2007年7月に復帰するが、翌節の開始早々に今度は右膝内側半月板を負傷し全治2ヶ月。
実戦に復帰できたのは2008年の2月。最初の怪我から、1年以上もの時が過ぎ去ってしまっていた。
それでも北斗はここから、必死に時計の針を巻き戻すかのような活躍を見せる。アビスパではこの年リーグ戦38試合に出場し、5月にはU-23トゥーロン国際大会のメンバーにも選ばれた。怪我の影響でアピールの機会が少なく、残念ながら北京五輪のメンバーからは漏れてしまうが、北斗を高く評価する声も多かった。
その代表格は元日本代表監督のイビチャ・オシム。当時JFAのアドバイザーを務めていたオシムは、北京五輪世代のメンバーからヨーロッパのトップリーグでも通用しうる選手として4人を挙げたのだがその中に、水本裕貴、李忠成、森重真人とこちらも後の日本代表3人と並ぶ形で、北斗の名があった。
さらに、この年の暮れにはJ1の千葉、横浜FM、FC東京からオファーが届く。
悩んだ末に北斗は、FC東京への移籍の道を選択する。そこにはJ1で自分の成長を促したいという表向きの理由と共に、裏の理由もあった。
当時のアビスパは資金難。自分が移籍することで多額の移籍金を残し、アビスパを助けよう、という気持ちもあったのである。
アビスパを離れて以降
FC東京の一員としてJ1に挑んだ2009年。足首の痛みで出遅れたが第12節で途中出場すると、国見時代の同期、平山のアシストから決勝ゴールを決めた。この年は守備のポジションだけでなく、サイドアタッカーとしてもプレーするなど幅広い活躍を見せている。
2010、2011年も出場機会を得て一定の活躍してみせたが、2012年、再び怪我が北斗を襲う。
11月17日の神戸戦で右膝内側半月板を損傷。次にベンチ入りにまでこぎつけたのは2013年の8月末。しかも、結局この年は出場機会を得られなかった。
2014年、U-20日本代表やFC東京で指導を受けた大熊清に誘われ、大宮に移籍。左右のSBとして、J1でまだまだやれることを示してみせた。
アビスパへの帰還
それなのに2015年、北斗はJ2にいたアビスパに帰還した。
そこには、「チーム状況が良くなってからではなく、自分が良くしたい」という想いがあった。
さらに副キャプテンにも就いた。キャプテンの城後を支えようという気概があってのことだ。
「1つのチームに所属し続けるのは難しいこと。城後の選択が間違っていないことを証明したい。」それが叶わなかった北斗の発言だからこそ、重みがある。
この年、試合後は2〜3日痛みが抜けないほどに膝の状態が良くなかったにも関わらず、左右のSBとして3位での昇格プレーオフ進出に大きく貢献した。
そして、やはりプレーオフ決勝のことは詳しく述べねばならないだろう。
5年前の今日、12月6日に行われた決勝の相手はシーズン4位のC大阪。
レギュレーションによると、どちらのホームでもない、中立地で試合が行われるはずだった。
が、結果としてアビスパのホームゲーム扱いでありながら会場はC大阪のホーム、長居スタジアムに。
これにアビスパサポーターが奮い立った。大阪まで駆け付けたサポーターはなんと約9000人。
引き分けでも昇格となるアビスパは大歓声を後押しに戦ったが、60分にC大阪の元日本代表・玉田に先制ゴールを奪われる苦しい展開。
その後北斗がエリア内で抜け出したシーンがあったのだが、中央で待つ城後へのパスを選択しハンド気味ではあったがカットされてしまう。北斗はこの選択を後悔したそうだが、結果としてこれが伏線となった。
残り時間が僅かとなった87分。低い位置で北斗が奪ったところからカウンターを仕掛け、左から亀川がクロス。中央の中原の前をボールが通り過ぎた瞬間スタンドからはため息が漏れたが、その先には監督の指示も無視してゴール前に駆け上がってきた北斗がいた。右足から放たれたボールがサイドネットに突き刺さり同点。
このゴールがあったからこそ、アビスパはJ1に昇格することができたのだ。
この年の始め、アビスパ復帰を決めた北斗はこうも語っていた。「自分の中では福岡時代のプレーが自分のプレーだと強く感じていた。これからまた福岡で輝きを放ちます。」
試合中に膝に水が溜まってくるのが分かるほどに膝の状態は芳しくないなかで30以上もの試合に出場したことにも驚きだが、この劇的なゴールで北斗は、宣言通りに強く光り輝いてみせたのである。
選手として、最後の挑戦
その後もアビスパでのプレーを続けたが、2018年地元・長崎へ移籍を決意。
「アビスパで現役を最後まで続けたい。」と語っていた北斗が移籍を選択したことには驚きもあったが、2017シーズンのリーグ戦で5試合にしか出場できず昇格も逃した悔しさに加え、地元の長崎で、クラブ初のJ1で戦えるということを考えると気持ちはよく分かる。
ただ、やはり膝の痛みもあって長崎では出場機会に恵まれず、2019シーズン終了をもって契約満了となった。そして引退という道を選んだが、最後までチャレンジし続けたからこそ、引退に際して「後悔はない」と言い切れたのだろう。
プロサッカー人生を振り返って
16年間のプロサッカー人生で、J通算251試合に出場した。しかし度重なる怪我の影響は大きく、本人が語ったように「一気に登りつめ、少しずつ低迷した」感はやや否めない。
それでも、ピッチの上下を躍動する中村北斗の姿はアビスパサポーターの脳裏に、間違いなく焼き付いている。
アビスパにとって25周年となる今年、西日本スポーツが歴代ベストイレブンの投票企画を行ったのだが、その中で、現・日本代表の冨安健洋に次ぐ投票数(アレックスと同数)でSBに選出されたのが何よりの証拠だろう。
海外でプレーすること、日本代表に選ばれることこそを目標とする選手が増えている。
もちろんそれも素晴らしい目標だが、一方で、1つのクラブと相思相愛であり続けるということも、また素晴らしい。
長崎で引退後、すぐにアビスパのU-18コーチという形で指導者となった中村北斗もまた、アビスパを愛し、アビスパに愛されている。
指導者を選んだ理由を聞かれ、「アビスパが好きで、恩返しをしたい。アビスパが強くなる所を見たい。」と答えた北斗を、サポーターもまた愛さずにはいられない。
最後となるが、2015年の北斗のコメントを載せたい。
「クラブの経営状態さえ良ければアビスパにずっといて、そのままキャリアを終えるつもりでした。」
長年所属した選手が、これほどまでに愛してくれている。そんなクラブのサポーターで本当に良かったと、改めてそう思える。