虚空の自分

なんとなく今日、noteを初めてみた。

でも、これは誰に向けて書いているわけでもない。強いて言うなら、未来の自分といったところであろうか。

齢22、いつしか自分も変わってしまった。まだ22だけど。
おはよ、じゃーなを使っていた自分はどこかに消え、いつの間にかおつかれ〜って言うようになってた。留学しているからかもしれないが、インスタのストーリーにたまに返信してくれると最後には日本帰ったら飯食おうぜって言うようになってた。

だからといってこうなったこと自体を悲観するつもりはない。変わってしまったことは事実だし、これを前みたいに戻せることはあっても一回変わったことには変わりないからだ。

それよりも気にするべきは、知らない間に変わっていたと言うことだ。いつ、何があって自分はこうなったのか。それを知らないと言うことに目をむけるべきだ。正直、悲観するべきだって最初書いたけど、悲観することは全くもって生産的ではないからしない。

自分が変わるところを目にするのは楽しいし、自分のためになる。将来何かがあって自分が立ち止まったとき、自分が何を考えていたかを見ると何かヒントを得られるかもしれない。そう思ってnoteを初めてみた。だから誰に向けて書いているわけでもなく、強いて言うなら、未来の自分なのだ。

実際、twitterとかthreadsでやろうかと思った。でもそれらはやはり人とのつながりを重視している分、周りによって定義されている自分になってしまいそうだったし、何より140字で収まる気がしなかった。

何の本だったか忘れてしまったことは勿体無いが、人間は関係主義的な存在であると読んだ。それは実際そうだし、高校の頃に結構好きだった倫理の授業でもニーチェの話をしてくれた気がする。

関係主義的な自分を感じることは容易である。それはなぜならば関係によって定義されるわけで、自分で実態を確立する必要はない。

だからこそ、僕はここで実態主義的な自分を確立する営みをしているわけだ。

しかし、これはとても有意義な試みに思える。この試みはつまり実態主義的な自分を言語化しているといっていい。言語化というのはとてつもなく偉大な生産であり、それは自分の思考を理路整然と表すことであり、自分の思考の明瞭化につながる。

だから、僕はこの作業を続けていこうと思う。

拝啓 未来の自分、僕が何を考えて生きているか振り返るんだ。何を考えているかこそが生き様であるからだ。ここに何かヒントがあるといいが。


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