【読書雑記】辻井喬『詩が生まれるとき−私の現代詩入門』(講談社、1994年)
いつも、身近な、目につきやすいところに置いてある一冊。小さな新書判の本なのだけど、もう何度読み返したか知らない。辻井喬さんの『詩が生まれるとき〜私の現代詩入門』。装いが改まるずっと前の講談社現代新書の一冊として1994年3月に出版された本だ。
わたしは、この本を読むたび、いつも不思議な感覚におそわれる。建て替えられる前の三田・南校舎の教室の記憶……。この気分は、他からは決して味わえない無上のものだ。
これには理由がある。この本を一度講義で聴いている。たしか法学部の学生だった92年の秋、いまも続く「久保田万太郎記念講座」に、ビジネスの一線を退いたばかりの堤清二氏が、辻井喬として三田の山に現れた。毎週火曜日、全部で十一回の講義だったと思う。
西武セゾングループを率いた堤氏に関心がなかったわけではない。だが、同氏の詩人・作家としての顔に、より魅かれ、興味を抱いた。俯き加減で、はにかんだその容貌は、どこか思弁的で、他の多くの経営者とは一線を画すものだった。
講義は周到に準備されていた。時折目を落とす手元のノートはびっしりと小さな文字で埋められていた。渦巻きを描くように、思考の深みへと導いていく講義であった。詩を素材としながら、取り上げられる主題は哲学そのものだった。思考へと導かれ、思考の場に臨み、想像力とは何かを問いかけられた。
講義の理解には、しばしば関連文献に手を伸ばすことも必要だった。西脇順三郎の『詩学』やテリー・イーグルトンといった文学理論に取り組んだのもこの講義に誘われてのことだった。少し背伸びが必要だった。
詩というものを通じ、テクストを読むことがいかに創造的活動かを学んだ。辻井さんが一つの詩論構築を試みようとする、そんな思考の現場に立ち会えた幸せを改めていまかみしめている(2013年度『萌木』(49号)「校内アンソロジー」より)。
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