【随想】「知」への契機

 なにか明確な目標やプランがあって大学に進学したわけではなかった。あのころのわたしには、「知」や「知性」、また「知的なもの」に対する強いあこがれがあり、その延長線上で、分野はどうであれ、学問というものにじっくり取り組んでみたいという気持ちをもっていた。
 生まれ育ったのは、過疎化の進む元々炭鉱があった町で、小さな頃から、街が抱えるさまざまな矛盾を間近に見てきた。そのせいかもしれない。つねにわが町の問題を考え、稚拙ながらその解決をあれこれ夢想する子どもだった。しかし、そのころのわたしには、決定的に「知」が不足していた。
 わずかな知識と、取るに足らない経験と、ある種の視野狭窄で迷い込んだのが法学部法律学科であった。社会の問題からではなく、実定法の条文解釈から入る法律学のアプローチにわたしはすぐに失望した。転部すら考えた。
 ある日、失望に耐えかねたわたしは、ある教授を訪ねた。教授は、法律学に対するわたしの不満や失望にだまって耳を傾けてくれた。ひとしきり話が終わると、教授は言った。「君は失望するほどに法律学を学んだといえるだろうか?」その後のやりとりをまったく覚えていないほどわたしは動揺した。気持ちが落ち着いてきたのは、教授の部屋を出る段になってからである。送り出すときの教授の言葉をかろうじて覚えている。「わたしのゼミを志望するなら、きちんと試験を受けていらっしゃい」と。
 翌年、わたしはその教授のゼミに入ることが認められた。四半世紀前のできごとである。いま、わたしはその教授と出会った年齢に近づきつつある(「2017年度『萌木』(53号)校内アンソロジー」より)。

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