多神教の世界にデビューしました。
左利きはマイノリティなので、右利きに合わせて作られた世界では手間がかかったり、少しの工夫を要すと言います。
私は左利き要素を中途半端に持つ右利きなので、時々ふと右利き社会に気づきます。自動改札機でSuicaを左手で出していたのを右手で持ってみたらやりやすいと気付いたりします。
私がこの日本で暮らすのは、左利きの人が生活するのと同じようなものです。友達への説明を必要としたり、参加を控えたりすることが多かったです。
現代日本において、はっきりと自分の宗教を持っていると自覚している人は多分マイノリティです。
八百万の神を信奉する文化の日本において一神教の宗教を持っているのは明らかにマイノリティです。
そのマイノリティな一神教の中では、マジョリティなキリスト教徒ですが、人数が少なくカルトと呼ばれている宗派というのは、やはりマイノリティ中のマイノリティです。
そんなマイノリティの世界にいましたので、私は誕生日をお祝いする言葉を避けたり、新年を祝う言葉を喪中の人のように避けていたり、学校の休みの日には戸別訪問をしたり、学校では校歌を歌わなかったりしました。いわゆるJW二世として生活してきました。
私のスペックは、母親が浸礼を受けた翌月に私を出産。母が信者で、父親が反対者の未信者。二世として生まれ育ち19歳で浸礼、33歳で自ら望んで排斥にしてもらい、世の人である夫と結婚しました。
世代としては修学旅行は参加、大学進学は普通に選択でき、鞭による体罰は私個人はほぼ無いですが、受けた経験があるはずの世代な1982年生まれです。
(これは背教者文書ですので、信者の方はここで回れ右です。私はつまづきの元になりたいわけではありませんし、読まないほうがいいと思います。)
排斥後、私は特に何か宗教を選んだのではなく、一般的な日本の人たちの中に入ってみました。どうなるのかは、自分でも興味深く観察してみようと思って、まる2年が経ちました。
多神教の概念については、たぶん日本人なら七五調に馴染むのと同じくらい自然とDNAレベルで馴染めるものでした。なので、この世界にデビューしてもあまり違和感なく馴染めているのが現在の状況です。
マイノリティでは無くなって3年目の私が気づいたことを挙げてみます。
〇お正月に、「今年もよろしくお願いします。」だけで返していたのが、「おめでとう」と言うことに抵抗がなくなった。
〇人生初・初詣が2017年1月1日。
〇お寺や神社に行ってお賽銭入れたのが初(文化財としての価値には敬意を持っているので、みんなと観光地に行くときには普通に行ってはいた。手を合わせたことがなかった)。
〇お墓に行って、お線香をあげたのは夫の父の墓が初(お墓の掃除や管理はしてる)。
〇お仏壇に手を合わせてお線香をあげたのも夫の父のが初。
〇1年目、お守りを持ってみても違和感が無い(以前は手に持つだけでも気分が良くなかった)。
〇悼む気持ちがあっても線香をあげなかった私が、思い入れの多寡問わず線香をあげるようになった。以前より親族が喜ぶ。(そりゃそうだと思うかもしれませんが、実際は故人への気持ちがゼロでもマイナスでも線香はあげられるので、悼む気持ちというのは、こうした形式では一切測れないことを深く実感しました)。
〇2年目にして、御朱印帳デビュー。
〇冠婚葬祭が、ものすごくものすごく楽になった!!!気の重さが以前の5%以下。
〇クリスマスソングが嫌じゃない。そうなると流れてることにも気づかない。
〇雪の結晶デザインが好きなのだけど、クリスマスと一緒になりがちなお陰で慎重に選んで避けていた。今はクリスマス雑貨も純粋に可愛く思えるし楽しめる。多分クリスマスグッズはそもそもデザインが好きなんだと思う。
〇誕生日を祝うようになった。普通に「おめでとう」の一言を入れるようになった。プレゼントも瑕疵がなく贈れるし受け取れる。
〇乾杯をできるので食事や飲みがラク。気が重くない。つい何も言えず空気を読んで乾杯してしまっては後悔していた。今は全く罪悪感がなくなった。
〇ハロウィンのカボチャや蜘蛛をただのデザインとして眺められる。不気味だったのが今やかわいいとさえ思える。
〇髑髏のついたバンドTもグッズも一切抵抗なく買えるようになった。
〇ミリタリー系のデザインも普通に眺められる。迷彩を着るのに抵抗がなくなる。
〇選挙で投票をするようになった。政治的意見を持つようになった。(情報収集はしても意見は一切持たず中立に努め、意見を表明しないように努力していた)。
〇ありとあらゆる習慣や行事が異教のものかどうとか関係ないので、全く気にならない。
〇食事の前に祈らないのはたまに今でも違和感を覚えるけど、すぐ慣れる。
〇祈るという行為が日常生活から消えた。
〇気が付くとお仏壇に一番手を合わせてるの私かも。
〇盆踊りはまだ踊ったことがない。機会が無かったので。
〇命日とか月命日の事をお話しするようになった。
〇恵方巻きも雛あられも柏餅もクリスマスケーキも、「ただの食べ物」になった。
〇国家も校歌も崇拝の曲ではなく「ただの曲」になった。イメージソングとか主題歌的な。
〇逆に冠婚葬祭でみんなより宗教的な行事に慣れている気がしてきた&神職への敬意が自然と出るのかもしれない。
〇結局のところ、人間の曲解って罪だと気付いた
〇私が躓いた要素のあれもこれもそれもどれも、実は聖書に書いてないことだった。母を含めその兄弟姉妹達が持つ人間的な弱さや人間の曲解がもたらしたもので、聖書由来じゃなかった。
〇今でもあんまり輸血は積極的には受けたくない(医学的な弊害は知ってるから)けど、別に拒否しないと思う。
〇かといって献血できるほど健康ではない(服薬中)ので出来ないのだけど。
〇友達として何人かとくに安否が気になる信者がいる。1人だけは今でもとても安否の気になる人がいる。(排斥となった私はもう連絡を取れない。)
〇ライヴ行ってもフェス行っても、誰かのファンとして応援するにしても、今までほ偶像礼拝にならないよう気を使っていた。今ではその枷が無いので思い切りはじけられる。(あれではじけてなかったの?と思うでしょうが、時折ふと我に返ったり歯止めをかける瞬間が必ずあったのです)
〇感情に色がついて鮮やかに色とりどりになった。(平穏ではなくなったともいう)
〇反ワクチンとかマクロビとかベジの人、特にビーガンの過激派の一部の人って、一種の宗教っぽく見える。
マジョリティの世界で、見えたこと気づいたことって結構あります。
これは、まだパッと浮かぶ程度のことで、全然本質を書いていないので、次から中身を書きます。ちょっとゆっくり進むと思います。長文癖があるので、なるべく気を付けます。
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