ウクライナ東部訪問:ニュースは真実を伝えない
ウクライナ東部の戦闘地域では多くの障害を持った人たちが避難もできず、現地に取り残されている。紛争や災害などで最も弱い立場の障害者に対しては、国連にも専門の機関はなく(子供にはUNICEF、女性にはUN Womenがある)常に忘れ去られた存在となる。日本財団では私自身が陣頭指揮をとりウクライナ東部の戦闘地域から障害者の救出を行なった。特徴的なのは、ウクライナ国内や周辺国に広がる数百万人のユダヤ系住民のネットワークを活用していることだ。これまでに4000人以上の障害者をウクライナ国内外に避難させている。
救出事業を開始して、10月で半年を迎える。半年間の緊急支援事業だったので、この事業を続けるべきかどうか判断が迫られていた。現地を見なければ判断を間違える。NHKの国際報道記者として20年にわたりイラク、アフガニスタン、ワシントンなどで安全保障問題を取材した経験から確信していた。メディアは戦争の全体像を伝えられないからである。彼らに悪気があるわけではない。一方で彼らが視聴者や読者の立場に立って報道しているわけでもない。メディアは最新の戦況だったり、最前線のもっとも悲惨な戦争の断片だけを連日伝える。それがジャーナリズムだと信じ込んでいるからである。戦闘の最前線の過激な映像を連日浴びせられている読者や視聴者は戦争について誤った認識を植え付けられてしまう。NHKニュースを見ているとあたかもウクライナ全土が戦闘状態にあるかのような錯覚を持つのである。私自身、メディアの一員として長くその片棒を担いでいた。
緊急事態に際して責任者が判断を間違える時は、決まって十分な情報がなかったり、誤解に基づいた固定概念があるときである。その最大の理由は現地の様子を正確に把握できていないからだ。メディア報道をフォローしているだけではバイアスがかかってしまう。今後の事業の方針について、こうした間違えを避けるためにも9月下旬リスクを最大限管理しながら戦闘地域を訪問する決断をした。職員に戦地への出張は命じられなかったため、役員である私が私の判断と自己責任で一人で現地に向かった。
9月28日、東京からドイツ経由でポーランドのクラクフに到着。ホテルに入ったのは現地時間の深夜1時をまわっていた。翌朝29日、7時、ウクライナの障害者救出事業のパートナーでユダヤ系オーストリア人のズマーリーとホテルを出発。車で4時間ほど移動してウクライナとの国境の町、プシェミシル駅に到着した。ここで嬉しかったのは、ウクライナから隣国ポーランドに逃れてくる避難民支援のボランティアとして日本財団がポーランドに派遣している日本の大学生が迎えてくれたことだった。彼らは2週間の日程でウクライナとの国境にあるポーランド側で避難民の支援活動を行なっている。合計約100人の学生が現地でこの活動に参加した。決して楽な仕事ではなかったと思うが彼らの人生にとってかけがえのない経験となったことを心から祈っている。現地でコロナウイルスに感染し、帰国が遅れた学生もいたが全員が無事に帰国してくれた。
プシュミシル駅でポーランドを出国し、ウクライナに入国。手続きは至って簡単だ。多少の列はあるが、30分ほどで全ての手続きは終了。列車は日本の特急のような仕様で非常に快適である。車掌の代わりに軍服を着てライフル銃を持った女性兵士がチケットとパスポートのチュックをする以外、車窓からは秋の東欧の風景が続く平穏な列車の旅である。
快適な列車に揺られ3時間。ウクライナ西部の都市リヴィウに到着した。街は活気に溢れ、戦争をしている国とはとても思えない。ウクライナはキャンディやチョコレートなどのお菓子王国で、街にはおしゃれに飾られたキャンディショップが軒を連ねる。通りには高級車が行き交いレストランは多くの人で賑わっている。少なくとも戦闘地域から離れた西部の街では人々は日常の生活を取り戻したかのように見えた。
10月30日、ウクライナ西部の拠点都市、リヴィウで1泊後、ウクライナ人のドライバー、スターシュの運転で首都キエフを目指した。600キロ10時間弱の車の旅だ。スターシュは同行していたオーストリア人のズマーリーが彼の知り合いから紹介を受けた人物だ。コンピューターサイエンスなど2つの修士号を持つインテリである。ウクライナ第2の都市でロシアに一時占領されていた東部のハルキウ出身。ロシアとの戦争が始まったあと家族と首都キーウに避難している。戦争で仕事も失った。これからハルキウに向かう我々にとっては心強い道案内役である。
リヴィウからは、車での移動の方が早いため、東部ハルキウを目指し、50歳前後のウクライナ人、オーストリア人、日本人のオヤジ3人での車旅である。陸路の旅は全長約1200キロ。
リヴィウからしばらくは片側1車線の道路が続くが、すぐに高速道路に変わる。道路は非常に良く整備されている。車の通行量も多い。スピード違反を取り締まるパトカーの姿も目にする。いたって平穏な風景が続く。一部では道路工事も行われており平時の仕組みが機能しているのがわかる。NHK記者時代、アフガニスタンやイラクなどの戦場でも取材したが、その時と比べて戦争の緊張感も匂いも全くない。ポーランド国境から首都キーウまでのウクライナ西部は東部とは全く違う平穏な雰囲気である。もちろん経済状況は戦争をしている国なので良くはないが、治安という意味ではおそらく隣国ポーランドと変わりはない。
途中食事や休憩を入れて約10時間、キーウ郊外に到着した。ロシア軍が首都周辺を占拠した際、住民の虐殺が行われた町、ブチャだ。ロシアのウクライナ侵攻直後、ロシア軍がキーウ周辺まで迫り、ウクライナが首都に繋がる橋を破壊してロシアの進軍を防いだ。ウクライナ戦争が最も緊迫した時期だった。その時、ロシア軍がしばらくの間、占領したのがキーウ郊外のブチャなどである。ロシア軍撤退後、残虐な住民の殺害が明らかなにった。
虐殺から数か月が経ち、筆者が訪れた10月初めにはブチャの町にはスパーなどが再建されていた。一見、住民は以前の生活を取り戻しているように見える。しかし、平穏な街が突如恐怖と化した記憶は住民の中からは消えず、多くの人は一生心の傷を背負って生きていくことになるのだろう。
首都キーウに入ると、市民は金曜の午後を謳歌していた。町の広場には多くの人が家族連れなどで繰り出し、爽やかな秋のそよ風を楽しんでいた。「非常が日常になる」、人間とはすごいもので、非常事態が毎日続くと慣れてしまうんだろう。500キロ離れた国の東側では激しい戦闘が続いている。日本に置き換えれば、東京と大阪くらいの距離である。広い広場にも流石に観光客らしき人は見かけず、アジア系は私ただ1人である。
2日目の夜は首都キーウ市内のホテルに宿泊。夜中に2回、空襲警報が鳴る。ロシアからは頻繁にミサイルが飛んでくるが、ほとんどは首都防衛の迎撃システムで撃ち落とされている。キーウ市内でミサイルに被弾する可能性は極めて低い。地下駐車場の一角は椅子やソファが設けられ、シェルターとして使われている。しかし、警報を受けて地下の駐車場に避難したのは筆者を含め国際援助関係者の外国人4人だけだった。従業員すら非難しない。
翌朝滞在3日目の10月1日、東部ハルキウに向かってキーウを出発。さらに500キロ余りの車の旅だ。キーウから東側に入ると車の数がめっきり少なくなる。多くは物資輸送用のトラックか、兵士が乗ったバスや乗用車だ。軍用車両が不足しているのだろう、通常のSUVなどに兵士が分乗して東部の戦闘地域に移動している。一時、高速道路を挟んでロシア軍とウクライナ軍が戦火を交えた地域もあり、戦車や軍用トラックの移動などで傷んだ道路はあちこちが陥没している。ドライバーのスターシュはその穴を避けながら運転をした。
ウクライナに入って気付いたことがある。湖や川で多くの男性が釣りをしている。ウクライナ人ドライバーで釣りが趣味のスターシュに聞くと、次のような答えが返ってきた。「法律で60歳以下の男性は国を出られない。一方、兵士はあくまでも志願制だ。中年男性の多くは体力に自信がなく志願しない。戦争のせいで仕事もない。お金のかからない釣りをするくらいしかないんだ」。
収穫時期にも関わらず、刈り取られていない小麦やひまわり、とうもろこしの畑を多く目にした。肥沃な土壌が広がるウクライナ東部は世界の穀倉地帯だ。しかし、食料の加工工場がロシアに破壊されたため、収穫が進んでいないということだった。ウクライナには間もなく極寒の冬が到来する。ひまわりととうもろこしは越冬させることができるため、小麦を集中的に収穫しようとしているということだった。
ポーランドとの国境から陸路3日をかけて、前線の都市、東部ハルキウに到着した。今回、我々の身元を保証し、現地のガイド役を務めてくれたのがハルキウ市の赤十字だ。彼らとのコネクションがなければ、戦闘地域までの訪問は考えていなかった。到着後すぐに、赤十字の代表、コンスタンティン氏自身が市内を案内してくれた。
ハルキウ市中心部から一番近いロシア国境までは50キロ。そのため、ロシアは侵攻開始直後にハルキウ市中心部へのミサイル攻撃を繰り返し、今もその傷跡が色濃く残る。侵攻直後は、市役所や軍事施設など重要な施設が標的にされた。ちなみにハルキウはソ連時代、重工業や軍事産業の拠点都市だった。今も軍事関係の大学や研究所が集中している。
ウクライナに入り首都キーウまでの西部は、ほとんど戦争の雰囲気を感じなかった。ところが東部のハルキウに入ると様子が一変する。アフガニスタンやイラクで感じた戦争の匂いがプンプンする。ただ、彼の地のように道路脇の仕掛け爆弾や自爆テロがないので緊張感は幾分少ない。
一方、毎日のようにロシア側からのミサイル攻撃が続いている。ハルキウ市には防空システムが備えられている(首都キーウほど洗練されたものではない)。夜はロシアからのミサイル攻撃に備えて街が真っ暗になる。ロシアから発射されたミサイルとそれを撃ち落とすウクライナの迎撃ミサイルが空中で激突して落下する様子が見られた。筆者は民宿の庭から夜空を流れ落ちる光を巨大な花火のようだと眺めていた。ハルキウを狙うロシア製ミサイルは短距離のもののため発射から着弾までの時間が短い。そのため全てを迎撃できるわけではなく週に1度はミサイルが市内に着弾するそうだ。運が悪ければ弾に当たる街である。
ウクライナ滞在4日目、10月2日、ハルキウでは地元の赤十字と一緒に行動した。現地の避難民支援を一手に引き受けている支援の拠点だ。倉庫にはWFP=世界食糧計画、UNHCR=国連難民高等弁務官事務所、UNICEF=国連児童基金、ICRC=赤十字国際委員会などから支援物資が届いていた。先進国の赤十字からは救急車などの車両も寄贈されていた。
一方、こうした国連機関や国際機関のスタッフや拠点はウクライナ東部では全く見ることができなかった。国際支援が届いていないのである。日本の外務省の幹部は、「途上国のように支援を受けることに慣れていないことが原因だと分析していた。ウクライナだけでなく、周辺国のポーランドなどでも、主権国家である国内の規制などがあって、国連は途上国で行うように大規模に展開できないと言うことだった。日本の東日本大震災の時も国連が現地で活動できなかった状況と似ている」と話していた。ハルキウ赤十字のコンスタンチン代表は「支援物資が届いてもそれを配るガソリン代やスタッフへの人件費の支援が全くない。スタッフは半年以上もボランティアで活動している。皆、家族もあり、これ以上ボランティアで活動を続けることはできない」と苦しい事情を語っていた。現地の事情に詳しい人は「ウクライナは汚職の蔓延する国である。首都のウクライナ赤十字本部には国際的な寄付金などが届いているはずである。それが現地まで届かない。ウクライナ国内の問題も大きい。」と話していた。
日本財団では半年にわたってウクライナ東部の戦闘地域から障害のある住民を救出する事業を行っている。国連には子供や女性を対象にした組織はあるものの、障害者を専門にした機関はない。戦争や災害などの緊急事態で最も支援が届きにくい人たちだ。非難をしたくても体の障害で動けなかったり、目や耳に障害があることで正確な情報を素早く得ることができず、逃げ遅れるケースが多い。このため、日本財団では障害者の救出を行うことにした。
現地には国際的な支援が届いていなかったため、ウクライナやポーランドに広がるユダヤ系のネットワークを活用することにした。ユダヤ人国家イスラエルで「アクセス・イスラエル」という障害者支援をしているNGOに日本円で2億円ほどの支援を行い、ウクライナだけで数百万人にのぼるユダヤ系ウクライナ人の一部を組織化して救出活動を行なった。民間の草の根の緊急支援としては極めて画期的な仕組みの活動であったと自負している。
筆者が現地を訪れた2022年10月初め、ウクライナ軍は東部でロシア軍に攻勢をかけ、およそ半年もの間、ロシアに占領されていた地域の奪還が続いていた。こうした奪還作戦の戦闘では多くの住民も巻き込まれた。しかし、こうした町では電力や医師の不足から満足な治療が受けられず、赤十字はハルキウ市の拠点病院まで怪我人の搬送に力を注いでいた。ウクライナ滞在5日目、10月3日、筆者はハルキウから100キロ以上離れた町の病院に収容されているケガ人の搬送に同行した。
ハルキウから片道5時間をかけて、ロシア国境の道路を移動。戦車や大型の軍用トラックの走行で道路は酷く傷んでおり、大きな穴があちこちにあいている。その穴を交わしながら、時速100キロ近いスピードで走行する。赤十字によると、ロシア軍は救急車も軍事的な標的として攻撃してくるため、できるだけスピードを上げて移動すると話していた。ただ、このスピードが大きなリスクにもなっている。
車両数台で移動していた時、後方で大きな爆発が起きた。その時はロシアからの攻撃だと思ったが、一緒に移動していた救急車の1台が地雷を踏んで大破したとあとで知らされた。奪還した地域ではあちこちに地雷が埋められており、道路の外には一切出ないよう厳しく言われている。トイレも路上ですませる。大破した救急車は高速走行中、カーブを曲がりきれず、わずかにタイヤが舗装道路の外にはみ出した。そこに地雷が仕掛けられており、爆発したわけだ。乗っていたドライバー、医師、救命士の3人が犠牲になった。
NHKの記者時代、イラクやアフガニスタンで取材をした。こうした地域では米軍に同行することも多かった。紛争地域で一倍怖いのは交通事故である。ハルキウの赤十字のスタッフはボランティアが多く、正式な訓練を受けていない者がほとんどである。3日間、一緒に行動していて強く感じたのは、彼らが蛮勇に駆られて危険地に立ち入り、自らの身を危険に晒しいる現状だ。現地ではさまざまな支援が必要とされているが、赤十字のスタッフの安全管理トレーニングも重要な支援だと痛感した。戦場でよく見る光景だが、アドレナリンが出続けて、恐怖に対する感覚が麻痺している若者が多くいた。
10月4日、前日、ゼレンスキー大統領がNATOに加盟する手続きを開始したことを発表したことを受けて、ロシアの報復攻撃が激化することを予想。そのため、予定を早めてハルキウを出発することを決めた。(結果的にこの日の夜、ハルキウには30発を超えるミサイルが撃ち込まれた。このうち、9発が市内に着弾。1発は滞在していた民宿から500メートルの場所だった。紛争地帯では臨機応変に行動することが身を守るという教訓を改めて実感した)
1週間あまりをかけてウクライナを西から東へ陸路合計3000キロ移動した。日本のニュースで報じられている戦闘地域は東部の一部だけである。ウクライナの90%は比較的平穏な状態である。(その後、ロシアによる停電が続き、市民はさらに厳しい状況を強いられている。しかし、戦闘地域は限られている)。報道は真実を伝えられない。筆者の仮説は当たってしまった。やはり、自分の目で見なければわからないことはたくさんあるのである。これで判断を間違えずにすみそうだ。
ただ、間違えないで欲しいのは、今回のウクライナ訪問は日本の外務省が渡航を厳しく禁止する中で筆者の判断で行ったものだ。それは現地での活動の判断を迫られ、必要に応じて行ったものである。その上で赤十字という現地を知り尽くしたホストがいた。最小限の人員でリスクを最小限にする行動計画を綿密に練り上げ行ったものである。興味本位で実行した行動ではないことを重ねて強調しておく。
戦闘地域に近い東部の拠点都市、ハルキウ。ミサイル攻撃の爪痕が色濃く残るこの街で人間の強さを再認した光景を目にした。破壊された建物の前で現地のモデルによる写真撮影が行われていた。ウクライナ東部の人々は今も厳しい生活を強いられている。しかし、希望を胸に力強く生きているのである。何があろうと、Life Goes On(人生は続く)のである。