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球体関節人形はなぜ球体関節でなくてはならないのか―究極の客体としてのドール

高校時代に市立図書館で堀佳子「生き人形: 堀佳子の世界」という写真集に出会い、なんて良いものなんだろうと思ったのが、今思えば球体関節人形との最初の出会いでした。
地元を離れ大学に入り、3年生くらいの時でしょうか、押井守監督の映画「イノセンス」が公開されました。
攻殻機動隊好きの先輩に連れられて映画館に行き、よく理解できないままに夢中で観ていました。取りこぼしている情報が多いような気がすると思いながら、目の前の映像を必死に追っていたような記憶があります。
そのあと、イノセンスの公開を記念して行われた球体関節人形展に行き、球体関節人形への執着が決定的なものになりました。
「構造を理解したい」と言って粘土をこね始め、卒論にも球体関節人形をねじ込みました。

しかしさて、なぜ人は、というか一部の人は、というか、私は、球体関節人形にこれほどまでに惹かれるのか。
なぜ「球体関節」人形でなくてはならないのか。
ということについて、自分なりの考えを述べたいと思います。

世の中には色々な人形があります。
ぬいぐるみも素晴らしいものですし、骨格内蔵タイプのシリコン製ドールには、球体関節人形にはなしえないなめらかな人体の表現が可能です。
それでも球体関節が良い!という、この気持ちの出どころが、自分でも長年不思議でした。
今、それを仮に、「関節が表出していること」「中空であること」の2点から語りえるのではないかと考えています。
そして、その2点が球体関節人形に徹底した「客体」としてのふるまいを実現させているのではないでしょうか。

  1. 関節の露出から見て取れる「客体」の実感
    球体関節人形は、当然ながらその構造上、関節が露出しています。
    展覧会等、実際に触ることができない場であっても、目で見て直感的に「動かせる」ということを理解することができます。
    動かせる、自分の良いように動かせる、そのように身を委ねられている―ある意味、自分が支配することのできる客体であることが一見して分かるという特長を、球体関節は人形にもたらしていると言えます。
    実際、人形作家による球体関節人形はその身を投げ出すような姿勢で展示されていることが多いですよね。
    (ドルフィードリーム等はポーズを取っていることが多いように思いますが、あちらはキャラクターフィギュア的な側面があるため少し分けて考えても良いと考えます。)

  2. 中空であることによる「魂の不在」の実感
    球体関節人形は、構造上その内部に空洞を持ちます。その体内の薄暗闇は、時として関節の隙間から窺い見ることが可能です。
    この人形は確かに空っぽである、うつろで、生きておらず、魂を持たない―ということが、構造を理解している人間には一見して直感することができます。
    魂がないということは、つまり、我々はそこにどのような魂も夢想することができるということです。ないということは、どのようなものでも入る余地があるということなのですから。

つまり、私が思うに、球体関節人形は身を委ねるような客体性と、魂の不在をその姿を以て特に現している「人の形をしたもの」なのです。
だからこそ、(人とは違って)遠慮なく見つめることができ、あらゆる魂をその身の中に夢想することができます。つまり、遠慮なく愛することができるのです。

ハンス・ベルメールは球体関節を分解と再構築の機構として利用しました。球体関節人形と昆虫標本の類似性について書かれたもの(澁澤龍彦だと思い込んでいましたが資料が出てきません、「少女コレクション序説」ではなくてもっと直截的なのがあった気がしたのですが)や、関節形状に対するフロイト的な観点での分析もあったかと思うので、球体関節人形の魅力については色々な見解があるかと思います。
ただどうやら、私にとってはこのあたり、「徹底した客体的存在であることを体現している」という点が、一番の魅力として感じられているのではないかなと考えたのです。

文中に出てきた資料:

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