AIと雑

現代の地球上ではAIが絵や音楽を作っている。今やAIの絵や音楽のデジタル作品は人間の技術を超えている。そういったものを鑑賞していると人間の作るものが雑に見えてくる。人間は一瞬で創作できないので時間がかかる。何かを諦める瞬間があるのかもしれない。AIの創作物をずっと鑑賞した後に人間の創作物を鑑賞すると、雑な部分が目について来るのだ。人間の創作物には雑が存在する。それは悪いことなのか。書道といえば達人の書くものなど、なんと書いているか分からないような素人目には雑だと思うようなものが評価されているという文化があることは誰でも知っていることだろう。人間は何かを極めるとすぐに崩したがる。人間は元々雑なのだ。長い人類の歴史の中でこういったことは至る所で起きている。例えばピカソだ。ピカソの絵は変で雑な絵だ。しかしピカソは最初はまともな絵を描いていた。でも最後は雑だ。人間のやれることはまさに雑なのだ。最終的に雑になるのだ。しかし只の雑ではない。雑を極めるのである。クラシック音楽の最も古いような録音を聴いたことがあるだろうか。雑な演奏なのである。しかし現代のクラシック界では丁寧で皆同じような演奏をしている。古い録音には味があるのだ。書道の達人の書いたものも、ピカソの絵も、「味がある」という言葉で評価される。人間のやれることは雑、味なのだ。雑とは何か。それは人間そのものなのである。人それぞれにそれぞれの雑さがあるのだ。そういった雑を極めていくとそれぞれの個性的なものに到達するのだ。なぜ人は崩したがるのか。雑を極めていくのか。雑に至る前にまず技術がないといけないとされている。人類はまず技術を求めるのである。書道家もピカソも最初は技術を磨いただろう。何故それを崩したのか。それは今AIの創作物と対峙している現代人こそ知っていることであろう。AIが技術を持てば人間がやる意味を失うという考えは生まれやすい。書道家もピカソも技術を極めていくと皆同じものを作っているかのように見えたのではないだろうか。自分がやるいみは何かと考えたときに、雑こそが人間のやることであると気づいたからなのではないだろうか。人間が持つ個、雑でさえAIは学習しヒューマナイズしてくるだろう。しかし人間が個人の持つものを雑を通じて表現すること自体は自分自身にしかできないことなのだ。技術を追うことを否定していないというと嘘になるが、雑は人間の持つ一つの選択肢として存在している。AIなどが生まれる何年も前から人類が気が付き到達していた技術に対する一つの答えがあったのだ。

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