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『聖なるズー』濱野ちひろ

パーソナリティとは、自分と相手の関係性のなかから生じたり、発見されたりするもののようだ。…中略…つまり、パーソナリティとは揺らぎがある可変的なものだ。相互関係のなかで生まれ、発見され、楽しまれ、味わわれ、理解されるもの。

『聖なるズー』pp.64~65


筆者が、動物と関係を持つ「ズーフィリア(以下、ズー)」についてフィールドワークを通じて学んでいく一冊。

人間対人間であれ、人間対動物であれ、上記のような「パーソナリティ」を関係性ごとに有しているという主張には大いに納得できた。

セックスにおける対等性と性的合意が真に可能なのかを検討する挑戦的な一冊であると思う。

本書が「気持ち悪い」という感想はあまりに表面的だと思うが、少なくともそれが生理的な感覚として共有されているのなら、その「生理」はなぜ「生理」たり得るのか疑問が生まれる。


筆者の問いは自らが元夫から受けた性暴力の経験からはじまる。

セックスの対等性をめぐって、動物と関係を持つとはどういうことか、セクシュアリティとは何かというように疑問を深めていく。

本書はドイツのズーについてその背景や実例を学ぶ教科書的な読み方を可能にするが、真に問題提起しているのは「フィールドワーク」の在り方であるように思う。

フィールドワークを行う者に望まれるのはどのような態度であるのかを再考する必要があるだろう。

筆者は、上で触れたように自らの性的な経験から問いを立ててゆく。

その経験の是非や後悔や苦しみについてジャッジする権限は誰にもないので、その点には触れない。筆者の経験は純粋に筆者の経験であるべきだ。

しかし、筆者の視点はどこまでも「ヘテロセクシュアル」で「シスジェンダー」なのだ。

そのSOGIがどうこうというわけではないが、その視点の持つマジョリティ性については常に自覚しておかなければならないのではないか。

本書の筆者のようにどこまでもマジョリティ性を自覚せずに(または薄い自覚で)ズーと関わり続けることがよいとはどうしても思えない。

とても悪く言ってしまえば、「物見遊山」なのだ。

パンがなければケーキを食べればよいと言ったとされるマリー・アントワネットよろしく、健全なセクシュアリティの者が「倒錯した」セクシュアリティであるズーを社会見学している感が拭えない。


確かに、当事者が当事者研究をするのはときに苦痛をともなうし、客観的な視点を保つことができないというデメリットは確かにあるだろう。

すべての研究は当事者によってしか行われないとなってしまえばあらゆる分野は閉鎖的なものになってしまう。

しかし、外部から何かを研究しようとするとき、特にそれが社会的に受け容れられていないもの、または自らの価値観と大いに異なるものであるとき、自らの持つ特権や立場について自覚的である必要があるのではないか。

安全なところから「私はそのような倒錯も認めますよ」という行為のなんと傲慢なことか。


人類学や社会学は専門外のため、もしかするとフィールドワークにおけるノウハウがあるのかもしれない。

ただ、他なるものに対してどのようなスタンスを保てばよいのか私には到底わからなくて、フィールドワークが一体何なのか、誰にどのように利をもたらすのか、誰のために行われるのか混乱が生じた。

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