芸人当夜 1-01 ー田舎からの脱却ー
01 壁
前話「芸人当夜 0 -prologue-」はこちらから。https://note.mu/i_am_berobero/n/nbaaf3e3f2263
時は遡ること1983年。長野県諏訪市。
技術系サラリーマンと専業主婦の夫婦から成る藤森家に、三人目となる次男坊が生まれた。
「慎吾」と名付けられた彼は"ザ・田舎"の環境で育った。家はほぼ山に囲まれ、周りは畑・田んぼしかない。食事も独特で、有名な野沢菜だけでなくあまり全国的に口にはされないイナゴのつくだ煮等も食べており、特に蜂の子は慎吾の大好物だった。裕福ではなかった藤森家では、ウナギは高級すぎて食べられない為、「ちくわ」で代用。ウナギの蒲焼きを知らないまま上京し、後に仲間にドン引かれる、なんて具合の一風変わった食文化だった。慎吾は昔っから父親っ子で、ただでさえ出張や単身赴任で海外を飛び回っていた父が久しぶりに帰ってくると、嬉しくて仕方がなかった。
まだおもちゃなども特段に進歩したものがなく、慎吾はけん玉や野球に没頭した。これも地元チームの監督を務めていた父の影響だった。ただ、サードを守っていても、ファーストまでボールは届かない。野球の腕は微妙ではあったが特にやんちゃもせず、のどかな諏訪でのんびり大人しく生活していた。
慎吾の小学生時代に、こんなエピソードがある。
小学校の卒業式に、慎吾の学年では一人一人が6年間の思い出を発表することになった。慎吾のクラスメイト達は学校行事での出来事や友達とのエピソードを語り、楽しかった6年間の思い出をそれぞれに思いのまま発表していった。そして、慎吾の番。彼はこの時、父が香港に単身赴任しており、近くには兄弟と母親しかいないという状況だった。そこで彼は、その学年でただ一人、父親がいない状況の中女手一つで育ててくれた母に感謝の言葉を述べたのだった。この発表は出席した母だけでなく、他の保護者の心も動かし、結果何人もの保護者の涙を誘った。
小学生の慎吾は律儀でまじめな純朴少年で、ほんとうに、普通の男の子だった。
諏訪の中学校に入って2~3か月後、父から家族全員で香港に移住する事を提案される。親戚や友達から猛反対されても、家族の為を思って父が下した決断だった。母を始め、家族全員が賛同。慎吾少年はいつもお父さんのそばに居られるという喜びと、見ず知らずの町・香港への不安を抱えながら、諏訪で積極的に参加していた野球チームの仲間に見送られて香港へ旅立った。
行ってみると、香港はとんでもない大都会だった。立ち並ぶ高層ビル、夜でも光が消えることのない繁華街。意味不明の言語(広東語)が飛び交い、路面電車と自動車が入り乱れながら皆先を急ぐように走っている。諏訪の自然豊かな環境で育った彼にはにわかに信じられない光景だった。
香港島から少し離れた九龍半島(クーロン半島)のマンションの一部屋に家族で住み、香港にある日本人学校にはバスで通った。高台にあるその学校からは香港の街並みや海が一望できる絶景が望める。が、田舎者の彼は都会に馴染もうと必死で、そんな景色には目もくれない。
香港の日本人学校には慎吾のような境遇の学生が多数いたが、その出身先は様々。慎吾のように地方の出身もいれば、東京や大阪といった都会からの学生もたくさんいた。
都会生まれのクラスメイトは元からスペックが違った。洒落たカバンやグッズをたくさん持っていて、それが慎吾には眩しかった。彼らの文化に感化された慎吾は、もともとお調子者の一面があったこともあり、さまざまなものにチャレンジしていった。あれだけ熱心にやっていた野球を捨て、仲間と混ざりたいということでサッカーをやり始め、美容室に行って髪を染めたり、ギターやスケボーをかじった。バンドを組んでミスチルのコピーもやった。が、その構成はカオスだった。ギター三人とタンバリン。今考えると滑稽だった。
学祭でのライブ直前の出来事。
「慎吾、いよいよだな。」
「怖いよ。」
「大丈夫だって。」
「失敗したくないよ。恥ずかしいよ。」
ついに出番がやってきた。
不安が最後まで拭えなかった彼は、自信に満ち溢れるバンドメンバーにバレないように、そっと自分のアンプのボリュームを0に絞った。ライブはそこそこの歓声を受けながら始まった。ステージから観客に向かって、三本あるはずのギターから奏でられる、重厚感のない彼らを表現したような二本のメロディーが流れ始め、そしてぎこちないながらに駆け抜けていった。メンバーは瞬時に慎吾のギターだけボリュームが出ていないことに気づいたが、後の祭り。
出番は、終わった。
終演後飛んできたメンバーからの責め立てを「なんかミスって音出てなかった」の見え透いたウソ一点張りでやり過ごした慎吾の胸には、恥ずかしいミスを全校生徒の前で晒した笑いものにならずに済んだ、という安心感と冒険しなかった後悔が7:3くらいで残った。半々ではなかった。
結局そんなバンドなど続く訳もなく、すぐ解散したが楽しかったので慎吾はそれで十分に満足した。
他にも当時流行っていた古着を身に着けたりして、"イケてる"人間になろうとしていた。このころヒットチャートをにぎわせていたDA PUMPやファッション誌を彩るモデルに憧れ、将来は日本の大都会、東京に住んでなにかで勝負してみたいという思いもうっすらと持つようになった。
一緒につるむグループもでき、自身もどんどん磨かれていく気がしていた。希望に満ち溢れている彼の生活は、順風満帆だった。
しかし、今まで田舎育ちの純粋な仲間たちに揉まれて清純に育った慎吾に都会の壁が立ちはだかることになる。
このころ、日本では「いじめ」や「未成年の犯罪」がニュースなどで大きく取り上げられ、社会問題にもなっていた。実際、慎吾の姉もいじめを受けており、実はそれが香港に移住する一つの要因でもあった。そしてこの日本人学校でも、それは例外なく行われていた。
彼が親密にしていたグループは7人組、その中のリーダーは学校で絶対的な権力と絶大なる信頼を持っていた。特に彼のファッションセンスはピカイチだったので、仲間たちは皆同じような格好をして彼を真似した。もちろん慎吾もそれに倣った。しかしこのリーダー、あまり素行の良い学生ではなかった。たちまち不良グループと化し、グループメンバーの親たちは毎日のように学校に呼び出されては指導を受けていた。
慎吾自身も、最初は学校終わりに商店街をうろついて買い食いする程度だったが、それがいつしか夜中までうろつくようになり、現地の警察に補導もされた。ピアスの穴を学校で開け、ある一定の周期でリーダーが決めた一人の人間を無視する、といったいじめにも加担させられた。そして、この無視は周期的にターゲットが変わる為、慎吾自身にも行われた。無視を受けた時、今までに味わったことのない苦しさを彼は覚えた。
時には「度胸試しだ」「お前そんなこともできないのか」とそそのかされて万引きをさせられかけたこともあった。最終的には一緒にいた仲間の実行犯が停学処分を受け、実行しなかった(というか怖さのあまり実行できなかった)慎吾はお咎めなしだったが、慎吾を「裏切り者」と感じた彼らと慎吾との間にはどうしようもない理不尽な溝が生まれてしまった。
慎吾は、こんな生活が「苦しい」と思うようになっていった。自分勝手なリーダーが、自分たちのような弱い立場の人間を振り回し、悪事を働く。そのリーダーの機嫌を損ねないか、緊迫した面持ちで皆学校に行き、また悪事に付き合わされる。毎日おびえながら学校へのスクールバスへ乗る。もう学校に行きたくないと思う時が多々あった。
しかし、そんな彼を支えたのは「家族」だった。慎吾は自分から決して悪事を働くことはない。それを誰よりも知っていた両親は全力で慎吾をかばってくれた。何度も地元警察のお世話になって、何度も「ワンチャイポリスステーション」(※現地の交番)に連行されても慎吾を見放すことなど絶対にしなかった。やがて慎吾はその親の優しさに改めて気づき、自分のいるべき本当の居場所をなんとはなしに考えはじめた。
最終的に、偽りない自分をさらけ出せる我が家に帰って、家族と一緒に食事をしながら、学校での出来事や最近のニュース・流行について話すことが彼の一番の楽しみになった。彼は、ただのイモっぽい少年ではなくなっていった。徐々に強くなっていった。そんな彼に、追い風が吹く。
中学2年の夏、このリーダーに不満を持っていたグループメンバー6人で結束し、リーダーをグループから追放したのだ。このちっちゃな、でも中学生にとってはとてつもなく巨大なクーデターを機に、慎吾はまた、残った5人の仲間達と自由気ままな生活を送ることとなった。
そして、もともとまじめだった慎吾は勉強にも注力するようになり、いつしか学年でも優秀な成績を取るようになっていった。
彼が中学3年に書いた作文には、こう記されている。
「来年の夏は、高校に入って(入っているかわかんないけども)きっと女の子と海にでもいって燃え尽きているでしょう。僕の夢です。」
田舎生まれの純朴だった少年が、「女の子と燃え尽きたい」とまで書くようになるまで成長するほどになった。それほど刺激的だった大都会・香港での三年間。後に彼にとんでもない仕事を与えることとなるが、それは・・・後ほど。
(1-02 迷走と奇策 につづく...)
続きはこちらから。
「1-02 迷走と奇策」
https://note.com/i_am_berobero/n/n55b4dba9bdd6
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