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英文解釈演習室2023年10月号

【訳文】ペンネーム I am a cat.

 ドストエフスキーのてんかんには奇妙で非常に際立つところがあった。発作の直前――前兆(オーラ)、実際のところ医学的には発作の一部――において彼が経験したのは無上の幸福感、つまりふつうの人間の想像力では及びもつかない恍惚の満足感である。これはいわゆる「悟り」の経験だった。アブラハム・マズロー流の安っぽい「サトリ」などではなく、究極のものだ。ドストエフスキーに言わせれば、たとえ10年長く生きられるとしても、この感覚と引き換えにするつもりはなかったそうだ。同じ感覚を経験したことがある私も、同意せざるをえない。この悟りの経験を言葉では説明できない。それが何なのかもわからない――少しでも時間がたてば、するりと逃げてしまう――とは言え、私は骨の髄まで身に染みて感じた。たしかに神は存在する! それなのに、やがてこの感覚は私の手からすべり落ちて見失ってしまう。信仰がぐらつきはじめる。熱心なキリスト信徒であったドストエフスキーですら、『カラマーゾフの兄弟』中の挿話「大審問官」では、神が存在する可能性に対してほとんど水ももらさぬ反論を展開している。この一節は世界文学史上の不滅の金字塔であろうし、読者を無神論者側に引き寄せる力がある。神を頭で理解しようとすると、この落とし穴にはまってしまうのだ。
※( )内はルビ

【検討会後の反省点】
(あとで追加する予定)

【訳文提出前に考えたこと】
『カラマーゾフの兄弟』中の挿話「大審問官」
いぜん和訳で『カラマーゾフの兄弟』を読んだことはあり、おぼろげながら「大審問官」の記憶もある(異端審問時代のスペインにキリストが復活、異端の疑いで逮捕される。死刑になるのか?)。しかし、念のために、まとめサイトや動画で内容を再確認しておいた。

(1パラa) The peculiar and most distinctive thing about his epilepsy was that in the split second before his fit — in the aura, which is in fact officially a part of the attack — Dostoyevski experienced a sense of felicity, of ecstatic well-being unlike anything an ordinary mortal could hope to imagine.
(考えたこと)
1文があまりにも長いので、訳文は2文にわけた。
officially は、ふつうは「公式に、正式に」だろうが、ここでは宗教体験と対比しての「医学的に」と解釈した。
a sense of felicity のあとのコンマは、筒井先生いうところの「並置」で、詳しく言い換えたということ。
unlike anything … 直訳すれば「いかなる~にも似ていない」だが、文脈から考えれば「いかなる~よりも上」という意味だろう。
→ 訳文:
ドストエフスキーのてんかんには奇妙で非常に際立つところがあった。発作の直前――前兆(オーラ)、実際のところ医学的には発作の一部――において彼が経験したのは無上の幸福感、つまりふつうの人間の想像力では及びもつかない恍惚の満足感である。
※( )内はルビ

(1パラb) It was the experience of satori. Not the nickel-and-dime satori of Abraham Maslow, but the Supreme.
(考えたこと)
satori は外来語(もとは日本語)なので、「いわゆる」に加えて、引用符を使った。一方、アブラハム・マズローの satori は表面的で浅い理解だろうから、あえてカタカナで表記。
→ 訳文:
これはいわゆる「悟り」の経験だった。アブラハム・マズロー流の安っぽい「サトリ」などではなく、究極のものだ。

(1パラc) He said that he wouldn't trade ten years of life for this feeling, and I, who have had it, too, would have to agree.
(考えたこと)
wouldn't は仮定法。trade A for B は、A と B を交換する。「たとえ A とであっても、B を交換するつもりはない」
ten years of life は「寿命が10年延ばせる」ということだろう。
I, who have had it 筆者も「本物の悟り」を経験したことがある。
→ 訳文:
ドストエフスキーに言わせれば、たとえ10年長く生きられるとしても、この感覚と引き換えにするつもりはなかったそうだ。同じ感覚を経験したことがある私も、同意せざるをえない。

(1パラd) I can't explain it, I don't understand it — it becomes slippery and elusive when it gets any distance on you — but I have felt this down to the core of my being.
(考えたこと)
it = this feeling = the experience of satori = the Supreme
becomes slippery and elusive 直訳すれば「滑りやすく、とらえどころがなくなる」だが、副詞と動詞のように「するりと逃げてしまう」としてみた。
when it gets any distance on you 直訳すれば「少しでも距離を置くと」だろうが、ここでの距離は「時間的な距離」だと解釈した。
down to the core of my being 直訳すれば「私の存在の芯まで」だが、ふつう日本語ではどう表現するか? DeepL の「私はこのことを体の芯まで感じている」は、なかなか上手い気がする。
→ 訳文:
この悟りの経験を言葉では説明できない。それが何なのかもわからない――少しでも時間がたてば、するりと逃げてしまう――とは言え、私は骨の髄まで身に染みて感じた。

(1パラe) Yes, God exists! But then it slides away and I lose it. I become a doubter.
(考えたこと)
Yes … But は「たしかに~しかし」の譲歩と解釈した。
become a doubter 直訳すれば「私は疑う人になる」だが、「神の存在に確信が持てなくなる」という意味だろう。
→ 訳文:
たしかに神は存在する! それなのに、やがてこの感覚は私の手からすべり落ちて見失ってしまう。信仰がぐらつきはじめる

(1パラf) Even Dostoyevski, the fervent Christian, makes an almost airtight case against the possibility of the existence of God in the Grand Inquisitor digression in The Brothers Karamazov.
(考えたこと)
makes an almost airtight case against 直訳すれば「~に対して、ほとんど空気をもらさない反論をする」だろうが、日本語ではふつう「水ももらさぬ」と表現するはず。
→ 訳文:
熱心なキリスト信徒であったドストエフスキーですら、『カラマーゾフの兄弟』中の挿話「大審問官」では、神が存在する可能性に対してほとんど水ももらさぬ反論を展開している。

(1パラg) It is probably the greatest passage in all of world literature, and it tilts you to the court of the atheist.
(考えたこと)
It = the Grand Inquisitor digression in The Brothers Karamazov
the greatest passage in all of world literature 直訳すれば「世界のすべての文学の中で最も偉大な一節」だろうが、機械的な置き換えではつまらないので、少々工夫してみた。
※「世界文学の最高峰」くらいが無難だったかも?
it tilts you to the court of the atheist 直訳すれば「無神論者の court に傾ける」となる? 前の文の case と、この文の court は、文脈から「訴訟」や「大審問官の法廷」ではないと判断したが、確信はない。
→ 訳文:
この一節は世界文学史上の不滅の金字塔であろうし、読者を無神論者側に引き寄せる力がある

(1パラh) This is what happens when you approach Him with the intellect.
(考えたこと)
This is what happens when … 直訳すれば「これは、~するときに起こることだ」「~するときに、これが起こるのだ」などだろうが、筒井先生を意識して少々意訳してみた。
Him = God 、大文字なので。
approach … with the intellect 直訳すれば「~に知性(思考力、知力)で接近する」だが、ふつうの日本語では「~を頭で理解しようとする」だろう。
→ 訳文:
頭で理解しようとすると、この落とし穴にはまってしまうのだ。

【参考資料】(この一冊という本は、今回はなし)

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