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『旅をする木』

そろそろ名前の由来を書いてみようと思う。
一ヶ月以上下書きに眠らせていたら、「そろそろ外に出たい」そんな声にもならない声が聞こえた気がしたから。

『旅をする木』

これはある曲のタイトルだ。

好きなアーティストの曲。
音源にはなっていないからサブスクでは聴けない。
それは彼が影響を受けたエッセイのタイトル。
そしてそれはエッセイ本の作者が影響を受けた本の一節。
1本の木の一生を描いたお話。

「旅をする木」で始まる第一章。それは早春のある日、一羽のイスカがトウヒの木に止まり、浪費家のこの鳥がついばみながら落としてしまうある幸運なトウヒの種子の物語である。さまざまな偶然をへて川沿いの森に根づいたトウヒの種子は、いつしか一本の大木に成長する。長い歳月の中で、川の浸食は少しずつ森を削ってゆき、やがてその木が川岸に立つ時代がやって来る。ある春の雪解けの洪水にさらわれたトウヒの大木は、ユーコン川を旅し、ついにはベーリング海へと運ばれてゆく。そして北極海流は、アラスカ内陸部の森で生まれたトウヒの木を遠い北のツンドラ地帯の海岸へとたどり着かせるのである。打ち上げられた流木は木のないツンドラの世界でひとつのランドマークとなり、一匹のキツネがテリトリーの匂いをつける場所となった。冬のある日、キツネの足跡を追っていた一人のエスキモーはそこにワナを仕掛けるのだ……… 一本のトウヒの木の果てしない旅は、原野の家の薪ストーブの中で終わるのだが、燃え尽きた大気の中から、生まれ変わったトウヒの新たな旅も始まってゆく。

旅をする木 / 星野道夫



もうこれで終わりでいい気がしている。
変に私が説明を加えるよりもこの文章から何を感じるか自分の内側の声に耳を傾けてみてほしい。

いや、やはり私の感じたことも少しだけ備忘録的に残しておこう。時間が経ったらきっとまた違う感じ方をするのだから。


この木と同じように誰もが一生をかけて旅をしているのだと思う。

その旅路は自分で選べるようでもあり、最初から決まっていてどう足掻いても結局は同じ運命を辿るようでもある。ただ確実なのは、命には果てがあるということ。単体で生きることは不可能であり、様々な命との繋がりで生きているということ。だから繋がりこそが生きている証ともいえる。そして、その繋がりは途絶えることなく一度は果てた命もまた別の命のなかで生き続ける。物質的にも非物質的にも。

失った輝きは巡ってゆくものだから

旅をする木 / 上野皓平




私はなぜだか人生を旅に例える感性に惹かれる。
別のアーティストの好きな曲にも"旅こそが人生だ"という歌詞が登場するし、

頭上を埋めつくす星は
燃え尽きた引き換えに輝く
いつか僕の命が果てても
この歌も同じように君を照らす

Stars / SHE'S

こんな歌詞だってあるし。


多分、私は死ぬのが怖い。
それでも。たとえ死んだとしても、この命が誰かのなかに巡っていくと思えたら少し気持ちが楽になる。自分が今生きていることも無駄じゃないんだと肯定できる。人生は自分の手で変えられると思えたら、絶望のなかにも希望が見えるし、未来にわくわくできる。自分の力ではどうにもできないことだってあると思えたら、自分の無力さにも少しだけ寛容になれるし、悲しい出来事からも目を背けすぎずに済む。

そう、全部自分にとって都合のいい解釈をするための道具。ニーチェの言葉にもあるが"存在するのは解釈だけ"なのだから、そのくらい私の好きにさせてほしい。

だから今の私の解釈は書いたとおり。




p.s.
最近、こんな私の価値観がそのまま映されたような曲が世に出た。『旅をする木』の前に使っていた名前がその曲のタイトルだ。

『Lamp』

ちょっとnoteのユーザー名にはそぐわないなと思って変えたのでした。



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