知の無知。
無知の知じゃない?と思った人がいるかもしれないがそうではない。
「知の無知」
言い間違えているわけではない。
意味は知ってることを知らないこと。
漢字の意味そのままだ。
といっても私以外で使ってる人を聞いたことはない。
私は現代に生きてる人のほとんどがこの状態なんじゃないかと思ってる。
2週間くらい前にベッドに寝転がってるときに突然閃いた。
これって知の無知じゃないか、と。
世紀の大発見じゃないかと本気で思って、心のなかでめちゃめちゃ興奮した。
無知の知は有名だけど、それと同じくらい世に知れ渡ってもいいんじゃないかと思うくらい。
無知の知とは、自分がいかにわかってないかを自覚するべきという考え方。
それに対して、知の無知とは、本当は知ってるはずのことに対して気づけていない、ないしは知らないふりをしているということ。
知らないことを知らないこともあるだろうけど、
知ってることを知らないこともあるんじゃないか。
なんか目がおかしくなりそうだ。
人は必ず死ぬ。
出会いがあれば別れがある。
永遠なんて存在しないし、絶対なんてない。
すべてのものが常に変化している。
そういったことは誰もが知ってるはずなのに、その真実を見ないように、目を逸らすように生きてるのが現代人なんじゃないか。
というより、その真実を見なくても生きていけるようにできているのが、現代社会なのだろう。
でもそんな時代だからこそ、私は知ってるはずのことにも毎回気づける人でありたい。
ちゃんと感謝も感動もしていたい。
「いつか終わりがくるからこそ今があることは当たり前じゃないし、有り難いと思うからそこに感謝が生まれる。」
尊敬するある人がこんなことをよく口にするが、私も同じように思う。
ちょっと壮大な話みたいになってきちゃったから、もっと身近なところで例えてみよう。
私たちは日常に散りばめられている美しいものをたくさん知ってるはずなのに、それに気づけてないことが多々ある。
あ、なんかこれも何かの小説の一説にあった気がする。たしか『羊と鋼の森』。文章がとても美しい小説。好きなアーティストがおすすめしてたから読んだ本。
また気づいてしまった。私って影響を受けやすい。よく言えば素直とも言えるかもしれない。
尊敬する身近な人、好きなアーティスト、本、映画、アニメ、色んなものや人から影響されてる。まぁでもそれらも全部私がいいなと思ったもので、いいなと思ったものの特にいいなって思ったら部分をちょっとずつ掻い摘んでできてるのが私だから、これはこれで私のオリジナリティと言えるのかもしれない。
そういうことにしておこう。
閑話休題。
(意味を知らない人は調べてほしい。察しの通り、これまたある小説の受け売りだ)
私たちは身近にある美しいものに気づいていない。
例えば、空。
私は空が好きでよく見上げる。決して同じ顔をすることはない空。それを残したくて写真を撮ることも多い。気づいたらフォルダは空だらけだ。時間帯によって色を変えていくその様はとても美しい。特に夕暮れどきの空からは目が離せない。心奪われるほど真っ赤になったその瞬間、このまま時が止まってほしいと願う。でもそんな私の願いなんてよそに、どんどん深い闇が覆ってくる。自分の無力感に唖然としているのも束の間、気づいたら浮かんでくる月や星の数々。真っ暗闇のなかで光り輝くそれらはとても美しい。昼間もそこにあるはずなのに、夜にならないと見えないそれ。
いつでも見上げればそこにあるはずなのに、知ってるはずなのに、空の美しさに日々気づけてる人はそう多くない気がする。
季節の移り変わりだってそうだ。
何の気なしに過ごしていれば、着る服くらいでしか季節の変化を感じない。
でも日の沈む時間や、風の匂い、木々の色、そこらじゅうに季節は溢れているはずだ。
家族、友達、仲間の存在。
そこに"在る"というのは、意識的にならないと感じることはできないのだと思う。
新しいこと、知らないことを知るのもいいが、必死になってそれにしがみついて、いつの間にか自己満足しそうな自分が怖い。
既に知っている大事なことや美しいものを蔑ろにしたくない。
ずいぶんと長くなっちゃったからそろそろ終わりにする。
伝えたいメッセージが明確にあったわけではないから、結論とかは求めてないでくれるとありがたい。
今回はただ私の世紀の大発見(仮)を誰かに話したかっただけだ。
この話に少しでも共感したり面白いと思ってくれたのなら私と気が合うかもしれない。
と言われても喜ぶ人はいないと思うが。
p.s.
公開前に読み直してみたけど、一つ前の投稿とちょっと内容が被ってる気がする。
まぁ気にしないことにしよう。
おんなじ人間が、おんなじ時期に、おんなじようなことを考えながら書いてるんだから、おんなじような内容になるのも無理はない。
でも次はちょっと違う話題にしてみようと思う。