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諦めとこだわり
最近何につけても諦めが良すぎて困る。悪いことじゃないんだが、すっぱり諦めがつきすぎるのも考えものだ。
通りすがりに知り合いに挨拶できなくってもクヨクヨ悩まなくなった。
困っている人を見かけた時、思わず見て見ぬふりをしてしまってもわりに後悔しなくなった。
わたしは偶然そこにいただけで、それをせねばなるまいなどという考えは結局は全て自分が自分に課した拵えもの、だということに気がついたのかもしれない。しかしそれは、言い換えればその度にある種の行動を諦めているということになる。
少し前までは、それが思った通りに実行できなければ、わだかまりとなって、ずっと心に残り続けた。入浴中、突然思い出してすっとんきょうな声をあげたりした。それは苦しかった。
もちろんそれは実行できた時も同じで、今日は良い日だとか、わたしは成長したのだとか、その都度大きく喜んだものだった。
しかし今は、違う。実行できてもできなくっても、前ほどは感情が揺れ動くのを感じなくなってしまった。まさに凪と言った状態なのだ。
少し話は逸れるが、わたしはこれこそが「大人になる」ということなのではないかと疑っている。実際どうなのだろう。
もちろん、諦めがつくようになってからはかなり楽になった。感情に振り回されにくくなったのだから、良い変化だと捉えても良さそうなものである。
その一方で、何かを諦めるたびにわたしの中から「こだわり」がなくなって行くような気がする。意識しないとそのうち本当に消えてしまいそうだと思う。気をつけてないと、仕舞いには人生なんて無意味というところまで行ってしまいそうなのだ。
何を諦め、何にこだわるのか。
それは、我々人生の大まかな外枠を決めているものだと思う。どちらかに偏りすぎてはいけない。自分好みの形を作り上げることが、わたしは良く生きるということだと思う。
どこまでわたしは自分の行動にこだわれるのだろう。こだわるということが子どもの心ならば、わたしはそれを忘れずに居たいと思うのだ。