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「同性愛者のアイデンティティ形成モデル」と私の話

こんにちは。Kikiです。見出し画像は、最近食べたもののなかで一番おいしかったやつです。(本文とは何の関係もありません  笑)

先週、大学院の授業で、「同性愛者のアイデンティティ形成モデル」(Cass::1979)を習いました。

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出典)「同性愛者のセクシュアリティ」『久留米大学心理学研究』第9号、2010年、91頁

私は、授業のコメントペーパーを書くのが割と好きで、なぜだろうと思っていたのですが、それは、普段ドラマや映画を観て感想をツイートする作業とあまり変わらないからだということに気づきました。ただ、当然ながらコメントペーパーにはツイートのような気軽さはなく、あまり具体的なことを書けなかったので、書けなかったけど書きたかったことをここに書くことにしました。最後まで読んでくださるとうれしいです。

私は、授業が終わった後、前述の「同性愛者のアイデンティティ形成モデル」を自分の今までの経験と重ねて考えてみました。(もし、これを読んでいる方のなかに当事者がいたら、自分の経験と形成モデルのどこが同じでどこが違うか考えてみると面白いと思います。そして、もしよろしければDMでもマシュマロでもいいので考えたことを私に共有してくださると泣いて喜びます。)

以下、私の考察です。
「段階1:アイデンティティの混乱」:高校3年生
授業を受ける前、偶然、過去の日記を読み返していたのですが、自分のセクシュアリティについて考え始めた高校3年生のころの日記に、「自分は同性愛者なのだろうか」と書いていました。

「段階2:アイデンティティの比較」:高校3年生
日記を読み進めていくと、「この状態は一過性なのだろうか」「この子だけが好きなのだろうか。それとも私は女性を好きになるのだろうか」と何度も自分に問いかけていました。(しんどかったね。よくがんばったね。)

「段階3:アイデンティティへの寛容化」:大学2年生の夏休み
大学2年生の夏休み、私はインターネットで、県内でレズビアンが集まれる場所を検索して見つけた女性専用(LGBTQフレンドリー)カフェに行きました。秋に20歳になると、夜にオープンするバーにもいくようになりました。今まで誰にも話せなかったことをバーの人たちになら話せて、当時の私にとって唯一の安心できる居場所になりました。

「段階4:アイデンティティの受容」:大学2年生の後期
大学2年生の秋、私は初めて大学の友達にカムアウトしました。無事、成功して今でも良い関係が続いています。当事者以外にも私のことを話せて、恋バナができてうれしかったです。

私の場合、「5:アイデンティティへの誇り」には行かずに、今は「段階4:アイデンティティの受容」「段階6:アイデンティティの統合」の要素を少しずつ持っている気がします。


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このモデルは、ホモフォビア(同性愛嫌悪)と異性愛中心主義を内面化した当事者のアイデンティティ形成がいかに難しいかということを示した一つのモデルにすぎないので、当事者全員がこのモデル通りに進んで、段階6に行けばよいというわけではありません。

特に、「段階5:アイデンティティへの誇り」では、社会に対して怒りを持ち、「異性愛=悪いvs同性愛=良い」と考え、異性愛者と対決するらしいのですが、それはなかなか過激で、一部の人しか移行しないのではないかと思いました。

仲間を見つけたからといって、普段生活している社会との関係を断ち切ることはできないので、「異性愛者と対決する」というリスキーなこと、私には無理だなぁと思いました。(できなくないですか? 笑)

このモデルは、「カムアウト」を単純なものとして考えているような気がしました。私はカムアウトするとき、毎回怖くて、毎回めちゃくちゃ緊張します。一人に言えたからと言って、劇的に何かが変わるわけではなく、カムアウトしていない(したくない・できない)人の前では、今まで通りに過ごさなくてはなりません

また、「誰にカムアウトするか」ということも考慮されていない気がします。私は、全く知らない人に同性愛者だと思われるのは構わないけれど、知っている人には気づかれないようにしています。友達には言えるけれど、家族には言えません。これから出会う人には気軽に言えるかもしれませんが、今まで長く付き合いのある人には言えません。

カムアウトしていない(できない)当事者(というか、当事者に限らず人間)は、複雑な人間関係のなかで暮らしていると思うので、特に「段階5:アイデンティティへの誇り」のように比較的過激な言動や反応は、一部の人しか経験しないのではないかと考えました。

ただ、このモデルは1979年、現在のように理解を示してくれるアライ(支援者)の方たちがいない状況で作られたのかもしれないと考えると、腑に落ちます。そりゃあ過激にもなりますよね、という感じです。

私が自分のセクシュアリティを認識したときには、すでにLGBTという言葉は広まっていて、支援者の存在はあった(知っていた)ので、正当性を増進させるために対決する必要がなかったように思います。

また、現在の日本の「政治的な発言はよくない」という風潮も、段階5に移行しにくいことに関係しているのではないかと思いました。今の日本では、どんな事象に対しても、怒りを持ちそれを表現・主張するというラディカルな運動は支持されないので、感情的で激しい段階5はあまり受け入れられないのではないでしょうか。(世知辛いですね。)


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私は、コメントペーパーの最後に、「私は、どのように生きていけば『よい』のか、ずっとわかりません」と、正直な気持ちを書きました。(心理学の先生というだけで完全に甘えていますね 笑)それに対して、「海外に目を向けることはお勧めします」「サンフランシスコのLGBTセンターでボランティアをするのは面白いかもと思います」と返信が来ました。

日本ではダメなのか、と思いました。
しんどいね~~~

私は、支援されるほど困っていないですが、支援できるほどの余裕はありません。女が好きな女なのでレズビアンを自認していますが、「LGBTの人」ではありません。私は私です。そして、正直なところ、「世界」に興味なんてありません。(このグローバル化が進む社会に生きていて、かつ学問を究めようとしている人がこんなこと言ったら叱られると思いますが 笑)

私はただ、自分の人生を豊かに、自分と自分の周りの人の幸せのために生きたいのです。でも、自分のことだけではどうにもならないことがたくさんあります。そこで、社会に怒りを持ちます。何かを発信しようとします。でも、そうしたら私は「LGBTの人」になってしまいます。

私は、異性愛者が「LGBTの人」に配慮して作った「LGBTの人向け」のサービスや商品は利用したくありません。なぜなら、そうすることで「普通の人」と「LGBTの人」(異性愛者と同性愛者)という今の生きづらい構造がずっと続いていく気がするからです。どうしたらいいのでしょうか。声を上げれば、この社会の構造に取り込まれてしまいます。

も~~~悪循環!!!

ふと気づいたのですが、私、今怒っていますね。これは、もしかしなくても「第5段階:アイデンティティへの誇り」にいますね、私。

あ~~~強く生きたいな~~~


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こんな話で終わってしまいましたが、最近はずっとこんなことを考えていて、一人で袋小路に陥っていました。一旦まとめて書くことで、前進できればいいなと思っています。

このnoteを読んで、ご質問やご感想、「考えが甘いぞ!」というようなご指摘等がありましたら、DMでもマシュマロ(Twitterのプロフィール欄にリンクを貼っています)でもコメントでも、いつでも受け付けていますので、どうぞよろしくお願いします。

最後まで読んでくださってありがとうございました。
またTLでお会いしましょう。

Kiki

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