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過去にして語れる程記憶は甘くない。

 だいすきなバンドのライブが延期になった。中止じゃなくて延期になった。公演の2週間くらい前の報せだった。LINEから、受け取った通知を、Apple Watchで仕事中に、開く。通知が誰から来ているかの表示はオフにしているから、LINEから通知が来たことしか分からない。トーク一覧に沢山並んだ通知の中で見慣れたアイコンをタップし、メッセージを開いた。そんな気はしていた。最終抽選の報せが公式であった時、Twitterでは散々に中止して、延期して、と言うリプライが相次いでいたのをちらっと見て閉じた。続々とイベントの中止が起こる中、きっとこのバンドはこのイベントを取りやめるのだろう。そんな風には少し思ってて、でも何処かで、観客が声を出さない様に注意すれば、ライブではなくてコンサートなんだとすれば、リスクは低下するのではないかとも思ってて、だって昔こそ観客は声を出さない様であったし、それが復活したみたいな、ある種観客達の一致団結で 人間の懐古癖を利用して、今回だけは、ってなれば良いんじゃないって思っていた。そうだったら良かったなとか不謹慎にも少しは思ってしまう。多分、私みたいに考えた人は他にも居ると思う。別に、人間の考えなんて千差万別なんだし、中止や延期を望む声も決行を望む声もあって良いと思う。どのみち、開催する側が決めた事をぼくたち参加する側が曲げる事は出来ない。参加するかしないかを決めるしか出来ない。ただ、こう、影響力のある公式アカウントに攻撃的なリプライを飛ばすのはなんか違うよなあって 公式アカウントになら何言っても良いみたいな感覚がネット社会の水面下で漂っているのは良くないところだよなあって凄く思う。中身、居るんですが????って思う。それ、運営やメンバーも見るんですが????って思う。折角脳もこころも言葉もあるのなら、好きなら尚更、もっとマシに遣って欲しい。言いたい事だけ言って一方的にすっきりされるような暴力的な言動を、どうしてその一文字を打つ瞬間にさえ思い留まれないんだろう。そんな事で完結できるなら、人間関係の縺れは全部暴力で解決出来てしまう。本当に言いたかった事とか、思ってた事は違ったでしょう。

 リスクがゼロではない限り、密集したり熱気が籠ったり発声したりする様な出来事は避けた方が良いだろうし、執り行わない方が無難ではある。けれどぼくみたいに何か工夫が出来たら決行出来るんじゃないかって惜しむ人間も居たからこそ、ピーク時期を避けて中止ではなく延期を決めた。それも、抽選結果は有効として。とんでもない配慮だと思う。延期だろうが中止だろうが再演なら抽選なんて引き直しになるであろう事態を、彼らは1度引いたくじを、ぼくらの時間と不安と感動を、無駄にはならないよって結果にしてくれた。中止や延期は想定の範囲だった。けれど諦めないで必ず公演を行うよって希望だけではなく、掴んだものを離さないで居られるようにしてくれた。死屍累々だったリプ欄に有難うと厳しいかもという言葉が湧いていく。決断の上で沢山の配慮と葛藤があっただろうと思うから、誠実に音楽をしようとする彼らに私はだいすきだ、有難うって会いたいと想う。

 例えば私が死んだとしても、著名人が死んだとしても、何年も何十年も引きずるほど悲しむ人は居ないと思う。命ってとても儚いんだ。その時泣いてもその記憶がいつまでも鮮明に保持されるわけではない。4K、8K動画に収めたって、VR映像に取り込んだって、その瞬間の情景はその瞬間のものでしかなく、その瞬間に生きていた自分のものでしかない。だからすきなものはなるべく一生涯すきで居たい。どんな事があってもすきだって一生涯言える様でありたい。だってすきなものが存在している限りは私が死んだって私の息が遺ってると憶える。すきなものが死んだって、私が生きてる限りはすきなものはずっと生きているって懐える。魂って概念は正直あまり信じていないけれど、記憶って概念は信じられる。

 すきなものをすきだった、にしたくない。「だった」にする度、私の中でぼくが死んでいて、私が知っている私が瓦解する気がしている。忘れる事が一番の苦しみだ。すきなものをすきだったと過ぎた事を憶えていて得があるわけではないけど、忘れてしまう事は途端からっぽの水槽を抱えるみたいに寂しくなってしまう。すきだったな、って思い出す事さえ哀しくなってしまう。冬で終わる筈の一年が春へ続くよなんて話みたいに哀しくて寂しい。永く永く、愛していたい。すきなものにはなるべく長生きして欲しい。どんな姿形になったって、できるなら私が死ぬ迄は全部居なくならないで欲しい。それが出来ないなら私はすきなものが死んでしまった時、それからずっと、悼み、傷み、痛みたい。
愛して痛みたい。

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