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熱血指導の音楽の先生を、卒業してから好きになった話し

小学校5.6年生のときに担任やった宮田先生が、今は大好きだ。
朝倉で先生をやっとるらしい。

正直、小学生のときは、宮田先生のことを怖いと感じるときもあって、「好き」ってほどでもなかった。
けど、卒業して時が経つごとに、宮田先生への感謝が募る。
怖かったのは、きっと宮田先生が本気で怒ってくれてたからだ。
小学生の時は、「雷が落ちたように」という表現が適切だと思ったほど、怒ると怖かった。

怒られた理由は忘れてしまったけど、宮田先生にぴしゃりとがられた経験が何度かある。
クラス全員が、少なくとも一度は、がられたと思う。

私が、今になって宮田先生を大好きな理由は、
怒る時も、勉強教える時も、生徒が理解するまでとことんぶつかって、教えてくれとったんやと、卒業してから気づいたからだ。(遅い)
中学の先生達はけっこうドライで、とても驚いた。

とくに、宮田先生の専門科目だった音楽の授業での、ぶつかり具合はすごかった。

たしか寒い季節だった。
同じ市内の、いくつかの学校がピーポート甘木に集まる「合唱コンクール」という催しがあった。今もあるっちゃか。
その合唱コンクールに向けて、朝練、昼休み練をかかさずやりよって、宮田先生の指導も凄まじかった。
今じゃ考えられんけど、当時はスパルタ(大きな声での指導)に泣く友達もおった。

私は、自分は音痴だと思いよったけん、歌に自信がなかった。しかも、当時の初恋の彼に、自分の音痴さがバレたくないげな、しょーもないことな考えとって、こっそり小さい声で歌いよった。
そしたらさら案の定、宮田先生に本気で歌ってないことがバレるやん?
当然、がられるやん?
その日1日、鏡の前に立たされて、自分の声の小ささと口の開けてなさを確認させられた。

それがキッカケで、私も恥ずかしさを捨てることができた。私の真正面に立ち、ビブラートがんがんで課題曲を歌い上げる宮田先生につられて、私も音痴なことも彼のことも忘れて、腹から声が出せるようになった。

いつのまにか楽しく感じとったし、ひとつだけ、自分の成長を実感した瞬間やった。

宮田先生は今、どんなふうに生徒と接しとるんかな。
このご時世やし、子供が泣くほどのデカイ声で指導してないといいな。
帰省したら、会いに行こう。

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