制作へⅡ 要約

1.Ⅱ章の説明

「虚構と実在」
「東京の〈際〉」を制作せよー関連の写像を超えて「未来」を拡張するためのプログラム,
「時間の形式、その制作と方法ー田中功起作品とテキストから考える」
の3つに別れている.

2.「哲学」とは,考える事,考えさせる事...が目的である.

要約前に,まず「哲学」そのものを解説する必要があるのかもしれない.
その3つは,もの凄い長文...と言う訳では無いが,難解である.
それには理由がある.
これらの文は「哲学」的な文章だからだ.

そして特に,「虚構と実在」の文は,文章講座PLANETS SCHOOLにて,講師,宇野さんが述べた「外部情報」がなければ全く理解出来ない程だ.
「哲学」的な文章は,「理解されたい」と著者が考えて書くものでは,あまり無いのだ.

では哲学者が著書を出版する目的とは,何か.

それは,読者が,文章を理解する為に,自分の頭で考えたり,関連書籍を読んだり,
そう...読者が「考える事を楽しむ」為である.
要は,哲学者はそのような,「沼」にハマる人を増やしたいのである(笑)

そして,自分の文章で触発されて,考えた人に,「自分と同じ結論」にたどり着いて欲しい...と思わない人も,また多い.
どういう事かと言うと,願わくば,「自分と違う結論」に至って欲しい,のである.
そしてその人が辿り着いた「自分とは違う結論」を,聞かせてほしい...
哲学者の欲望とはそのようなものであったりする.
だからこの『制作へ』の難解な文章を読み,理解できなくても,それは問題ではないし,あなたの頭が悪い訳ではない.まずは安心してほしい.

3.「虚構と実在」の要約,いや,むしろ解説

ではまず,解説に入ろう.要約...では無く.
通常の要約であれば,長い文章を短くするのが常道だが,逆にこの文章の要約は解説を入れて,逆に長くなってしまう事をお詫びする.
なぜなら,この「虚構と実在」の文章そのものが,外部情報がテッテ的に省かれた,超・要約文であるからだ.故に,この文章をかいつまむのは不可能で,逆に説明を付け足すのが,要点をまとめる事に繋がるだろう.

この「虚構と実在」は,哲学者/現代美術のキュレーター/人類学者...の3つの要素を持つ,上妻世界さんが「一つのモノ(実在)に対して,文化環境の違いにより,別々の見方(虚構)が生じている」という現在の哲学の定説を覆し,人類学の力を借りて,その「多文化主義」より,人類の常識を,先に進めるために書かれた論考である.

この「人類学」の視点が入っている...と言う事を知らないと,理解し難いだろう.
「人類学」とは,平たく言えば,『サピエンス全史』を想像して頂ければ良い.あれは人類学の中でも「人類全体の歴史学」と言えるだろう.
人類学者のスタンダードな研究法は,『サピエンス全史』的に,人類全体を取り扱うことは少ない.むしろアマゾンなどの未開地域の部族と一緒に暮らし,先進国の住民と,文化が違うと,「何が同じ」で「何が違う」のかを,明らかにしよう...という方法が多い.
前に,PLANETSのweb番組「オールフリー」で,上妻さんがモンゴルに行った話をしていたのを記憶している方もいらっしゃると思うが,要はそれを年単位で行ったり...という感じである.

それを踏まえて,漸く,要約に入ろう... ......続けましょう...
...「哲学」の起源は,ギリシャから始まります.
それは自分と違う集団,つまり,先祖や宗教などを共有していない「異邦人たち」が,「自分達」と違うモノの見方,捉え方をしていた場合,「自分達」はどのように世界,実在を見ているか…を説明する為に作られたものです.
しかし,その西洋哲学は,あまりにも多くの出自の違う価値観が入り乱れる社会となった現代では,「発展してる方が正しい」と言うような価値観,つまり西洋中心主義ととられてしまい,人類共通の思考方法として使いづらいものになってきました.
ですが,それを遠慮して,各文化による異なる視点を尊重しすぎれば,相互理解は不可能になってしまいます.
(岩崎の注釈 例えば,多くの民族が,それぞれ一つの国を作り成立したヨーロッパからの視点では,多くの民族を国内に抱えるミャンマーのロヒンギャ問題などへの言及が乱暴になってしまうことなどがある)

そのように,価値観を共有できない,価値観コミュニケーションが不可能である場合でも,異文化に属する人間同士は,仕事や友好などで,コミュニケーションを取られなければなりません.
...異文化であって価値観が共有出来ずとも,「感情」は人類ほぼ共通です.
その結果として現在SNSなどを中心に発達した共感コミュニケーションで人類は繋がっている状態と言えます.
(岩崎の注釈 例えば感情的に社会問題を語る,グレタ氏の例などが上げられまるでしょう)

しかしそれは,良いことばかりではなく,「感情のハック」を得意とする「広告」や「扇動」と言う,マス・コミュニケーションに自らの心を預けてしまう人の増加に繋がってしまいました.
(岩崎の注釈 このあたりは宇野常寛氏の『遅いインターネット』の指摘に近いでしょう)
多文化の地域に属する人達をそれぞれ尊重しようというのが,現在の「多文化主義」ですが,その結果,今や多様な文化に住む人達が,共通にディズニーなどの特定の文化へ消費行動を集められています.
かのように世界の共通理解は行き詰まっており,多様な文化を尊重する...筈が,単一の大きな物語に集約してしまっている...という状態でしょう.

しかし,今の世界が陥っている,その袋小路から抜け出る手段はある,と上妻さんは主張します.
それは,
「元々,その「1つの実在」が無いとしたらどうだろう?」
という「問い」です.

その「問い」から,発現したものの1つが,人類学者ラトゥールのアクターネットワーク理論です.
この理論は,人間だけでなく,自分以外の他のものを,全て変化するアクターと規定します.
そしてそれらがネットワークで繋がる事で,社会が作られ,変容して行くと言う理論です.
つまり,今人間が持っているスマホの位置には昔,携帯電話があり,その昔は固定電話がありました.
もし,昔と現在で,全く同じ家族構成であっても,その間にあるもの...スマホだったり,固定電話だったりによって,家族感は変わるでしょう.
そしてあらゆる場所で,あらゆる媒介で,それが同じように起こっています.
かつては,古典的キリスト教だったものが,カトリックへ,プロテスタントへ...更にはオンライサロン...などのように,人と人を媒介するものが変化します.
そしてその連続,変化そのものが,人間社会,それぞれの文化とする理論です.この場合,文化は「出発点」ではなく,結果,「作られたもの」...という位置関係になります.
スマホも人間の要求によって形状や,機能が変化してきました.
同じ様に,宗教や文化自体も「アクター」として,人間に変化を与え,また変化「させられる」存在であり,その集合が社会...と言うことです.
「スマホ」という名前の製品は有りませんし,「宗教」という名前の宗教も有りません.
しかし,その変化し続けてる筈の宗教,スマホは安定した方向で変化しています.その時人間は,そこに実在を見出せます.
まるで,「スマホ」という一つの製品や定義が存在するようにです.
そして,キリストの雑多な言行録を一つの本にまとめるように,です.

アクターネットワーク理論の他に,もう1つ上げられているのが,同じく人類学者カストロのパースペクティヴィズムです.
これは「多自然主義」とも説明されます.
聞き馴染みのない言葉ですが,説明しますと,
現代は「多文化主義」の考えが一般に浸透しています.人間や動物等の自然物は(肌の色や言語が違っても)基本的に差は無いが,文化が沢山有るとする考え方であります.
それに対して,文化は1つだけど,自然が沢山有る,これが多自然主義の考え方です.

要は,キリンが人間の文化をもし,学ぶことが出来れば,「キリンのまま」でも人間らしく生きられると言うのが多文化主義です.
いや,キリンがキリンの魂のままでも,人間の体や知恵を有する脳などの器にもし入り込めれば,人間らしく生きるだろうよ…と言うのが多自然主義です.
差異を無くす場所(発生している場所)がどこにあるか...という議論ですね.

そしてカストロは論を続けています.
肉食動物,草食動物,それに植物たちは,生態系,一つの社会を食う,食われると言う関係性から作っています.
それと同じように,人間もまた,与える,与えられる,奪う,奪い合う,愛する,嫌う,愛し合う…と言う関係性こそが社会を作っている、いや,人間性それ自身を作る...としています.
だから,野蛮人が「野蛮」なのは,そう生きざるを得ない「自然」がもたらした...という考え方です.

与えられた社会の中で人間がどう生きるか,どうなるか...では無く,
人々の関係性から人間性が生まれ,また人間性の集合自体が社会である…とするのがパースペクティヴです.
そう云った考え方をすると,他者,他人は,自分とは別の,理解すべきものではなくなります,自分との境目が曖昧になるのです.
もし,肉食動物と草食動物が入れば,肉食動物同士が争う事はないでしょうが,そこに肉食動物しか居ない社会だったらば,肉食動物同士は敵になるでしょう.
自分が他者に影響を与え,また他者が自分に常に影響を与えているのですから.

ラトゥールもカストロも,人類学の大家レヴィ・ストロースの弟子筋に当たります.
上妻さんは,SNS時代,グローバル時代に,確固たる道筋を付けられず,停滞している西洋哲学よりも,人類学の視点から社会に対してアプローチする方が有効では無いか,と主張している…ということでしょう.

4.「東京の〈際〉」を制作せよー関連の写像を超えて「未来」を拡張するためのプログラム,の要約

この文章は,先程の文章と,うって変わって,平易な文章で書かれています.
なので,これは短くまとめる要約で良いでしょう.

「虚構と実在」は,哲学者としての上妻さんが書いた文章だとすれば,この文章は,人類学者としての上妻さんによって書かれていると言えます.

シンプルな超・要約をすれば,
"我々は,地図を見る時,まるで神のような視点で眺めてしまうが,実際に住んだり,仕事などで,その街に関わる事によって,白地図に色が着くように,googlemapが地図検索履歴を保存していくように,前章でも述べられた「人と人の関係性」を地図上に,自分で制作していくことになる”
という内容になります.

まず,「際」という言葉の説明から入っていきます.
辞書によれば「際」は,「もう少しで別の物になる,その物のすぐそば.すれすれのところ.ある事のすぐ前の時」を意味する言葉です.
つまり,「際」は,中心と周縁の境目であり,都市と村落の関門でも有り,君と僕を繋ぐ媒介...でもあります.
交換の場でも有り,交通の中継点もあり,そしてコミュニケーションの媒体でもある,と,上妻さんは,前章の「人と人の関係性」の話を,この地図上の「際」の話に絡めてきます.
そして,「魅惑的な場所」とも評します.

人は地図を見る時,神の視点から眺めます.支配者の視点...とも言えます.
その視点から見ると,東京の際は,地図を眺めれば,神奈川県川崎と大田区蒲田,千葉県松戸と足立区北千住,埼玉県川口と北区赤羽...となるでしょうし,実際そのようなイメージでそれらの地域を我々は眺めています.
そこには,ある種の「香ばしさ」や「妖艶さ」を感じると,上妻さんは述べます.
そして実際リサーチをしたとしても,そのイメージが街に反映されていることもあるでしょう.

しかし,「代官山はおしゃれな街」だとか,そのようなシンボル化され,記号化された印象で街を語る事を,我々は無批判に受け入れても良いのでしょうか?
そのような,マスコミや広告によって作られた記号的な情報を沢山知っている事が,「街を知る」ということは意味しません.
「知る事とは,愛する事」だ,と上妻さんは述べます.
facebook上で,好きな他者の情報を入手することは可能です.
しかし,それだけでは足りません.好きな他者と一緒に暮らし,新しい物語を作っていくことが愛することであるように,街も,外部情報を知るだけでなく,そこに住み,自分の体験を作っていくことで都市を知るだけでなく,愛する事になるでしょう.
なので,東京の際を再構成する...それは,神の視点から描かれた地図ではなく,新しく,別の方法で描かれた地図を制作する事で可能ではないか,と上妻さんは述べます.

地図を見るとき,人は神の視点,上からの視点になりがちですが,そこに住む人が1人称視点で思い描く「わが町の地図」はまた違うでしょう.
その1人称視点で作られた,関係性の束から,上妻さんは,東京を捉えなおそうと試みます.なぜなら,街の雰囲気は,そこに住む,営む人間と人間の関係性の集合体と言えるからです.

上妻さんも,中目黒に「縁」をもつ前は所謂ステレオタイプなイメージを目黒に持っていたのですが,現代美術のキュレーターとしての仕事を目黒でする事になり,打ち合わせで足繁く通うようになり,長く目黒に住む担当者に老夫婦が営む喫茶店に連れて行って貰ったりしているうちに,上妻さんもの中の「中目黒」と言うイメージが更新されていきました.それはまさに人と人との関係性によって,です.

そして,上妻さんは,まさにこの体験により,自分の中に「自分の中目黒の地図」を作ったことになります.
物理的な「東京の際」とされる地域である,「大宮」や「川崎」にも,独特の魅惑が有り,分析に値するものではありましょうが,しかし,東京に住む上妻さんの中目黒での体験のように,個人個人が実際持っている地図の際が,記号的情報から,血の通った色に塗り替わることも「際」と言えます.

そして,現在,駅前にコミュニティスペースが出来たりするのが多くなっていることも,そのような「人と人との関係性」が都市にとっては重要なんだ,という揺り戻しの一環だと思われます.

都市開発は,更にコミュニティスペースのみならず,そこに,具体的に人と人を繋げるイベンターや媒介者と置くことまで考えるべきではないか...と上妻さんは続け,

高円寺にある,ビジュアルアーティスト集団Chim↑Pom運営のgarter,
広尾にある,宇川直宏氏運営のライブストリーミングスタジオDOMMUNEなどを例に上げ,我々一人一人が,一人称で都市開発出来るのではないか,と締めくくります.

5.時間の形式、その制作と方法,の要約

この3つ目の文章は,田中功起という現代美術家についての考察,論考です.
何より特徴的なのは写真が一切無いことで,上妻さんは,そのような一番重要な情報を乗せずに,文章のみで田中功起さんの作品の魅力...いや本文中だと「魅惑」を語る事により,作品の魅力と,それがどう「制作」されたかに,興味をもたせようとした文章と言えるでしょう.

自分(岩崎)は現代美術にはかなり疎く,努力集約作業的では無い美術は苦手なのですが,上妻さん曰く,彼の作品を見ていると,ある日,仕事から逃げるように芝生の上に寝っ転がった時に,小さい虫と目があった時のような,
「声にならない笑いが内側から湧き上がる」面白さがある,と表現します.
田中功起さん本人は,以前自らの活動を「無数にありえたかもしれない世界の可能性を探すこと」と表現しているそうです.
確かにこのヴィデオ作品からは,予想通りだったり,また予想を裏切ったり...と,そんな世界の可能性を想起させるようなものがあります.
上妻さんは,彼の作品を指し,「魅惑がある」という表現をし,そして,システムからの脱出する可能性を与えてくれる...と語ります.
確かにトイレットペーパーが本来の機能とは別に美しく動くさまを見ると,可能性を感じないでも有りません(自分には勿体ないという思いが先に来てしまいますが(笑))

現代美術家は,その名の通り,現代に生きているア―ティストです.
生きている,ということは,喋り,語る...と言うことで,メディア化した現代社会で,彼彼女らは,自分たちで作品を制作しつつ,また,その制作意図や目途などを自らの言葉で語ります.
それが現代美術家と,古典的美術家との大きな違いです.
そこでは,批評家は好き勝手に作品を批評できません(笑)間違えたら即座に作者本人からクレームが来てしまいますから(笑)

この章では,上妻さんは現代美術家のキュレーターとして,田中功起さん本人の発言を引用し,そして自分の解釈を述べ,更にまた本人の発言を引用する...と言う繰り返しで,現代に生きる美術家との共同作業のように,文章を制作して行きます.

田中さんは語ります.
「魅惑」とは,「さまざまな仕方で(オブジェクト)との関係性を結びたいと思わせる」技術である,と.
そして美術家は,オブジェクトを惹き付ける新たな「魅惑の形式」を発明することで,モノから「商品」ではなく,「芸術作品」を生成する職業だ,と.
これは,古典的な芸術家が,絵を描くキャンパスや石から彫刻を切り出していった時代から,中世の美術家が,単なるお茶碗に「美」を見出していき,そして現代美術家が,便器のフォルムや工芸的な「魅力」を発明した事を説明出来るような表現です.

上妻さんは語ります.
絵画を見た時,「キレイだね」とか「美しい」とか,そういう紋切り型の感想で済ませることも出来るけど,時に深い読解や使われてる技術,関連作品や時代背景について調べたりしたくなる事がある...と(声優なんかでもそうですね)

田中さんの表現だとそれは,フロイトの言葉にある
「終わりある分析」と「終わりなき分析」という説明になります.
そして,その「終わりなき分析」は,上妻さんの「魅惑」と等しい,という事です(ガンダムの事になると,終わりなき分析を,未だに続けている人,居ますよね(笑)それが魅惑がある,ということでしょうか)

ただ,「魅惑」について語ることは難しいと,上妻さんは述べます.
なぜなら,「魅惑」について語ろうとする時,それは常に「魅惑」された後だからです.だからガンダム好きがガンダムを他人に勧めても,他人はよく理解出来ない訳ですね(笑)

そして,ポストモダン的状況,つまり現代では,人々は属する共同体が違ってしまっていて,価値観が一致しない...つまりガンダム好きクラスタと萌えアニメ好きクラスタは,物理的や情報的に距離が近くても,上手くコミュニケーションが出来ない.
それ故にメッセージが単純化されて初めてお互いが通じ合うとしていて,更に強度にすがる作品が増える...のは必然だ,としています.ここらへんはSNS時代にも通じるところですね.
そんな時代に対抗出来るのは,「ユーモア」「ポリフォニック」「いくつかのコードにせつぞくすること」だ,と言います.
「ポリフォニック...ポリフォニー」...とは,(polyphony)は、複数の独立した声部(パート)からなる音楽のこと。 ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する。
です.
が,ここでは現代美術用語で,バフチンという方が提唱した概念です.
ドストエフスキーの小説を例に取り,全員が独立していて,解け合う事は無い声や意識や価値が,集まって一つの小説を作っている...ということですね.
確かに「罪と罰」は誰もが正解であるし,誰もが間違いでもある,と言えるような小説です.

なので,こんな価値観が多様な時代では,「ポリフォニック」な態度が重要であると.まぁ誰の意見も正解かもしれないし,間違いかもしれない...そんな人達が集まって社会全体を作ってるんだ...という態度でしょうか.
しかし,そこで重要になるのが,冷笑的,アイロニカルな態度で他者と接するのではなく,「ユーモア」を大事にしよう,という事です.

フロイトは,「ユーモア」についての短い論文を書いているのですが,その中で「ユーモア」は,声を出して笑うようなものだけではなくて,「精神的開放」の為のものでもある,というのです.
例えば,死刑囚が絞首台に行くまでに「明日の夕食はなんだろうな?」と連れに来た人に聞く...これは,まさしく死に行く自分や,連れて行く刑罰者,そしてその場の空気の「精神的開放」と言えそうです.
それが現代社会で他者と接する時に重要な事であると,田中さんは主張します.

田中さんが重要とした,「ユーモア」「ポリフォニック」...そして3番めが「いくつかのコードに接続する」です.
これもガンダム系列で説明すれば,「ガンダムW」です.かの作品は,架空戦記ものであり,美少年ものであり,政治モノであり,学園モノであり,ロボットものであります.結構前の作品ではありますが,クラスタが断絶した状況では,色々なクラスタから語る事が出来る,いくつかのコードに接続している事が,ガンダム原理主義者や,BL原理主義者などに縛られない作品を制作する事に繋がる...と言うことでしょう.

...「ユーモア」「ポリフォニック」「いくつかのコードに接続する」...これらは,まだ田中さんが比較的無名であった2000年に語られた言葉だそうです.
上妻さんの解釈では,まだ「分断」が表面化するずっと昔から,田中氏は,我々を「繋ぐ」為の作品を制作していた,ということになります.

これは田中さん2004年の作品,beerです.
この作品を発表した後,彼はこうある人に批判されたそうです.
「見たことのあるものは見たくない。芸術を通して見たことが無い世界を見たい」...と.
何億人という人がビールがコップに注がれるのを観たことが有るでしょう.
そしてこぼれたのも観たことがあるでしょう.
しかし,溢れたのにも関わらず,意に介さず注がれ続けた様を観たことがある人は,ほとんど居ないでしょう.
でも,その人にとっては「見たことがあるもの」に見えたのなら,それは仕方が無い言い,そしてこう続けます.
例えば,映画「エイリアン」で登場する異生物は,見たことがない生き物ですが,完全に虚構の中に居るので,現実との距離が遠くなってしまう...と.
それよりは,「現実の中にあるもの」が,「見たことのない状態」になった時のほうが,現実との距離が遠くなるのではないか...
ゴジラは完全に怖い存在なのだけれども,それより心霊写真の方が怖いと感じるのは,現実との距離が近いからですよね...と田中さんは言います.

田中さんは,「作ること」と「見ること」...の関係性にまでアクションを起こしていきます.
例えば,by chance<<2ducks>>というビデオ作品があります.
これは,30分長のビデオなのですが,そこに30分に1回,カルガモが通り過ぎる...という作品です(笑)
通常,そのような作品が美術館に展示されることはありません(笑)
29分30秒くらいは,単なる水面が映っているビデオなんですから(笑)
しかし,現実には,そういう時間はありますし,なんなら,公園でのんびりコーヒーを飲みながらそんな時間が訪れるのを待つ,,,なんんてのは贅沢な時間でしょう.ただ,美術館という場所...「見ること」が優先される場所にそぐわないというだけです.
田中さんはこの作品を通して「作ること」と「見ること」を問い直しているとも言えるでしょう.

芸術家というのは,難儀なものです.
例えば,岡本太郎氏のもっとも有名な言葉は何でしょう?
そうです.「芸術は爆発だ」です.しかし,彼はもっと沢山の言葉を語ったはずです.
色々な作品を作ってきた田中氏にも,そう,いつの間にかレッテルや,スタンダードな解釈のフォーマットが与えられてしまうのです.
田中功起は2000年前後,トイレットペ―パーやボール,バケツといったありふれた日常の事物が,まるで自分の意志を持つかのようにふるまうループ構造の映像で注目された.その後田中は東京からロサンジェルスへと活動の拠点を移し,ものだけで自足した世界から,モノに対する人の働きかけへ,さらには人と人との関係性へと,徐々に関心を移行させてきた
...これは第55回ヴェネチア・ビエンナーレで日本館キュレーターを務めた蔵屋美香氏の言葉です.

確かに,この言葉や,他の批評家の田中功起評は,正確で,的確なのですが,それ故に,初めて彼の作品を見る人や,ファンの見方を縛ってしまうものになります(時にそれは製作者自身の枷にすらなります)
だから,自身もキュレーターである上妻さんは,「再度見せること」について考えます.もっと見る人が,漂白された状態で,自由に感じることが出来るように...

田中氏は,「批評」について沢山遼氏との往復書簡で,このように述べている.
「お皿」という物の使用は,社会的に限定されています.
でも,子供の時,「お皿」は空飛ぶ円盤であり,つるつるすべすべしたものであり,また重石,でもありました.
社会的に「お皿」という使用法以上に,その機能や意味を見出す事が出来るのではないか,また,そこまでやる批評家ならば,それはアーティストに限りなく近い存在になる...という議論です.

上妻さんは言います.それがどんなお皿で,このような芸術性を持ったお皿だと説明することにより,鑑賞者はそのお皿の芸術性を理解する事が出来る.そのような「トートロジカルな機能主義限定の批評」も必要なことだけれど,それが持つ力が強すぎて,物の見方が一元化してしまう状況ならば,前述のような「アーティストに限りなく近しい批評」によって,その作品が持つ潜在的な可能性を引き出す事が必要である,と.

しかし,ここに一点問題が有る.「批評」されるのは,いつだって作品が「作られた後」ということです.
...例えば,「ナスカの地上絵」は何のために描かれたのでしょうか?
そう.作られたものは,機能を失ってしまうことすら,有るのです.ですが,そこでも「批評」は可能です.そして,ひょっとしたら,「ナスカの地上絵」はこのように使われたのである...という正解を蘇らせることすら可能かもしれません.
それがモノ,作品と真摯に向き有い,批評する...ということの醍醐味でしょう.
もしかしたら,人類が絶滅した後の地球に,宇宙人が訪れて,人類の遺産の作品から,何か刺激を受けたりするかもしれません.

これは,1人の髪を9人の美容師が切るという作品です.
9人の美容師が方向性を決めようと活発な議論を交わすところでトレイラーは終わりますが,ここには9人,いや,10人の異なった時間,思想,考え方,が一つのユーモアにより,纏められています.
私達は,田中氏の作品が持つ,多様な時間が共に存在する場を見渡せる視点...そう製作者,田中氏と同じ目線に立つことで,田中氏が制作する場に立ち会っていると言えるでしょう.

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