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「死別」を不幸と捉えて欲しくない

明日雨が降るかは解りません.
しかし,明日も死ぬ人は居ます.それは凄く「自然」なことです.

自分と時間を分かち合った人間が去っていくことは,
自分の心の一部を喪失するような,
悲しく,辛い体験である事は,動かせない事実でしょう.

でも,その「辛さ」を「不幸」と捉えて欲しくない,と私は思っています.
「死別」が避けられない不幸なら,
全ての人生は悲劇になってしまいますから.

そんな話を,私の好きな葬送の歌と共に,お読み頂ければ,幸いです.

「葬祭」とは"葬"と"祭". 死者を弔い,そして死者を祭る行為です.

その弔いの場で,皆の記憶に残るだろう,この世での死者の最後の姿を,
美しい思い出にするべく奮闘していたのが,私の前々職「納棺士」です.

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電話の音が鳴る.
事務所の床に敷かれた布団から這い出し,受話器を取る.
お客様の名前,住所を聴き,電話を切る.
時計を見ると2時だか1時だか,そのくらいに針が有る.

眠気を払い,荷物を積み,黒いミニバンを走らす.
この車には通常サイズの荷物が2つ積める.
荷物とは,棺桶.
ちなみに,空の棺桶は,一般車に載せても法的な問題は無い,
それはこの仕事について知ったことだった.

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僕らの”依頼人"は葬儀屋さん. 僕らの"お客さん"は,ご遺族.

では,僕らにとって,死者...つまりご遺体は?何なのだろう?
ご遺体は"物語の主役"である.

”物語の主役"のラストシーンを,悲劇ではなく,
せめて穏やかなものにする為に,僕らはそこに行く.

その横たわる姿は通常,残された者たちの「後悔」を促す存在だ.
それを「安堵」をもたらすような姿に変化させる事が,

僕には,出来た.

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髭を剃る.顔も剃る.男女とも.
髪を洗い,整える.

寝間着や病院着を,ご遺族の望む服に取り替える.背広でも,私服でも.
それも僕1人で,肌を露出させずに行う.

特に,顔が重要だ.「見れる」顔にする. 全ての技術を使って.
安らかな顔は,作れる.
目や口が開いてるのなら,優しく閉じさす.
傷は隠す.特殊メイクのようなものだが,大仰な道具は不要で,
ワセリンとファンデーション,コンシーラーくらいで大抵の傷は隠せる.
ご遺体を,汚れたものから,綺麗なものへと見違えさせるのが,僕の仕事だ.

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包帯の下には,足が有る. 人はそう考えるものだ.

例えば,重度の糖尿病などで,足を切断した患者さんが居たとする.
かなり以前からその状態であれば,それは恐らく「そのまま」が自然だ.
しかし,死に繋がる闘病の過程で,それが起こっていた場合,
足の「形」を作ってあげても良いだろう.
そこに包帯を巻く,若しくは靴下でも履かせれば,見た目が整う.
それがご遺族の心を癒やすことに繋がる.

ご遺族は,故人を「可哀想」な存在から救いたい,何とかしたい,と願っている.
その為の技術を持つ故に,僕らは呼ばれ,
呼ばれた僕らは,それに応える努力をする.

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しかし,技術によって仕上げられる,最終的な見た目より大事なのは
手伝って貰うことだ.

ご遺族に,ご遺体を見つめて,触って,別れを告げる機会を,敢えて作る.
僕はプロだ. 一人でやった方が早い. 仕上がりも美しい.
でも,それじゃダメだ. 意味が薄れる.

ご遺族が「後悔」してるのは,何故か?
死に行く人の前で,ご遺族は,医者のように手を尽くす事は出来ない.
呆然と立ち尽くすだけだ.
もっと運が悪ければ,死に際に立ち会えないことすら,有る.
「アレをしてあげれば良かった,コレもしてあげられなかった...」
明日死ぬ,と解ってればやった筈のことが,やれていないからだ.

だから,故人の手足を拭いてあげる,靴下や足袋を履かせてあげる...
そんな葬送の準備を,自ら行う事が,送る側の「後悔」を癒やす.
葬祭は,グリーフケアの始まりだ. 手際の良さや,美しさだけでは,足りない.

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なので,ご遺体を棺の中に納める時も,極力,ご遺族に手伝って頂く.
老夫婦の片割れであれば,尚更のこと.
体に指が触れるだけでも,声をかけて貰うだけでも構わない.

死者を弔うのは,僕でも葬儀屋さんでも無く,彼彼女らによってなのだ.
流暢も完璧も度が過ぎれば,ご遺族が手を掛けづらい雰囲気になってしまう.
僕が行う死化粧と,素人のそれでは,技術と経験に,膨大な差がある.
しかし,無くなったお婆ちゃんのメイクをしたいと,孫の娘さんが言うのなら,
故人が喜び,ご遺族の心が安らかになる手段を選ぶ. その方が,圧倒的に正しい.

棺に納め,布団を掛けてしまえば,顔以外は見えなくなる.
だからと言って,隠せば見えなくなりますから...という仕事を僕らは,しない.

細かいところまで,やる. 見えないところまで,やる.
この世での役目を終えた肉体に,限界まで手を尽くす.
それこそが,ご遺族の,「してやれなかった」...と言う「後悔」を,癒やす.
その「出来る限り」を行って,葬儀屋さんに後を託し,僕は車に戻る.

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眠い.3時過ぎか...
エンジンを付け,事務所に向かう.

仕事は好きで,やり甲斐もある.
でも,仕事の一環と言えど,この移動時間は,好きになれない.
1時間...時には2時間3時間の道を往復するのは,キツイけど,それは別に良い.
運転は嫌いじゃない. けど,ご遺族を待たせてるのに渋滞にハマったり,葬儀の時間に追われ走るのは正直,精神的に疲弊する.

状態の悪いご遺体の処置に,2-3時間かけた事も何度かあるが,
報われる苦労は,別に苦労じゃないな...と思う.

事務所に戻り,4時半. もう電話は鳴らないでくれと願いつつ,布団に潜り込む.
ちなみに翌日も仕事だ.

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千人ほどのご遺体に携わらせて頂いた.
5年ほどで辞めるまでに.
激務...社内の色々...将来の展望...
離職を前向きに語るのも,自己正当化の趣味も無いから,詳しくは書かない.

得難い経験をした...とは思う.
「専門技術」も,数々身につけた.
がしかし,それらを,その後の僕の人生で役立てられた事は,正直,無い.

自分の人生の「キャリアパス」になったとは,とても思えない経験だ.
が,それでも,人生で凄く役立ってきた「専門性」...が1つだけ,有る.

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「人は死ぬ」 

その普遍的な事実を,
僕が心底,理解できたことだ.

明日,僕は死ぬ可能性がある...
明日,僕の知る誰かが死んで,もう逢えなくなるかもしれない...
そう日々思い,生きれるようになったこと.

それが,あの仕事を通して学べた
「専門性」だ.

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蛇足ながら,最後に,大切な人を亡くした全ての人へ.

葬儀(死者の弔い)の終わりは,
葬祭(死者を祀る)の始まりです.

祀るやり方は,自由です.
宗派や教義に縛られずに,死者とあなたで,新しい関係を結んで下さい.
あなたの大切な人を祀るのは,墓前でも,心の中でも,空の上でも,構いません.
お盆でも,苦しい時でも,ふとした時でも,あなたは話しかけることが出来るし,
そして,それに,死者がどう応えるかは,あなたは解っているはずです.

「死別」は,肉体的な別れでしかありません.
「死者」と,精神的に別れる必要なんかありません.
その人が「生きた意味」を,
あなたが,これからも,共に作ってあげれば良いんです.


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