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短編小説: #空色杯応募作品 「手袋ごしの拍手がボンボンと鳴って」

 ボン ボン ボン ボン

 冬の澄みきった空気は、分厚い手袋から鳴る拍手をまっすぐに届けてくれる。

私がこの拍手を聞くのは五回目だ。

 合唱部に憧れる中学生として二回。
 先輩を送り出す後輩として二回。
 そして、今日。

 晴れて、よかったです、晴れて

 私が指導役をした一年生が泣きながらそう呟く。二年生の新部長が彼女の肩を抱いて励ましている。

 私が一年生の時は猛吹雪の日で、先生の指示でホームの奥に隠れながら歌っても口に舞った粉雪が入り続けた。
二年生の時は熱を出して来られなかった一年生のためにビデオ通話をつないだ携帯を掲げながら歌った。
いま笑顔を見せている顧問の先生も、十八年前にここで歌った時の写真を見せてくれる。
そうやって、ここには3月になるたびに歌が響いてきた。

 町を発つ卒業生部員を駅のホームで歌で送り出す。私が高校時代を過ごした女子合唱部の名物行事だ。

 十年前にテレビで扱われたことがきっかけで、この小さな故郷の恒例行事として扱わるようになった。
今では地域の新聞社が来たり、鉄道会社もその日だけは停車時間を伸ばしている。
「私の時は電車が待ってくれないから2番の途中で終わったのに」とは、顧問の先生がよく言う言葉だ。

 この町に生まれた私は、中学生の時にここで合唱を聴いて憧れ、入部してから二回歌った。
そして、私は歌われる側になった。

「今年はさらに人が多いね」

 電車の方から運転手の声が聞こえる。
今年、人が多いならきっとそれは私が理由なのだろう。

 地元出身で、久しぶりの音大合格者。

 この小さな町ではそれなりに大きな出来事として扱われて、特に見せびらかさなくても噂が噂を呼び伝わっていった。
合格してから三日ぐらいは町を歩いていると「おめでとう」と声をかけられた。
子どもの頃からお世話になっていた洋菓子屋さんは無料でケーキを作ってくれたし、タウン誌の記者も一人取材にきた。
あまりに賑わいぶりに合格当日は泣いて喜んだ私は、不思議と落ち着いてしまったのを覚えている。

「ほら、一言挨拶して。みんないっぱい集まっているんだから」

顧問の先生が私に促す言葉が耳に入り、改めて聴衆を見回す。

 家族
 同級生
 後輩
 地元に残っている先輩
 先生
 町の人
 よく知らない人

 この駅にいる誰も私の方を見ている。
そして、それぞれに朗らかな表情をしている。
この町にぴったりな、暖かな姿だ。

でも、今日はそれが怖い。

 私を半円状に囲っているのは「期待」だ。
 地元から大きく羽ばたくであろう、この町の星。
きっと、みんなには私が希望に溢れていると見えるだろう。

 歌うのは好きだ。それで生きていけたらどんなにいいだろう。
 それは本気だ。

 だから、音大を希望したし、なんとか合格できた。
 嬉しかった。

 一生懸命勉強した。
 音大のこともいっぱい知った。
 だから知っている。

 ここから先、続くのは厳しい訓練と競争だ。
 講師や指揮者に、昨今の学校ではありえないぐらいに公然と怒られることもあるらしい。

 毎日、毎日、せわしない日常を送り、
 喉や歯のちょっとしたトラブルが大事な試験や演奏会と重なれば機会を失うかもしれない。
 だから毎日ケアは欠かせない。

 常に成長とケアを続けていかなければならない。
そこまでやっても、望み通り歌で食べていけるのはごく少数だ。
私の前にこの高校から音大に進学した人は、確か3年生で中退して、今はこの町のスーパーで働いている。
彼女がこの駅で歌を聴く姿は一度も見たことがない。

 みんなから希望に見えている私がこれから見るのは「現実」だ。

 がやがやとした声と、頬に当たる冷たい空気が意識を駅のホームへと戻す。
私が黙っているので、みんなが不安がっているようだ。

 言葉が出ない。
 昨日の夜、眠れなかったので挨拶を考えていたけど、その言葉全てが喉に引っかかって声帯を通ろうとしない。

 一年生の出来事が思い出されてくる。
 レッスンの一環で初めて一人で歌うことになった時、声が出ずに音楽室で戸惑いの視線を集めることになったのだ。
結局私は泣いてしまいその日は中断。
一人で歌えるようになったのはそれから一か月後だった。そのことを、結局高校三年間いじられていた。
その話をされるたびに、私は笑いながらもちくちく刺されているような感覚を受けていた。
あの時の先輩、同級生、先生の表情と音楽室の白い壁の姿はずっと印象に残っている。

 学生服と厚着という違いはあれど、あの時と似た表情が私に向けられている。
それが、私をえらく不安にする。ちくちくでは済まないような痛みがある。
 この三年間、私は自分なりに努力して、その結果合格して今ここに立っている。そのはずだ。
それが、揺らぐ。右の膝から力が抜けそうになる。なんとか力を入れ直す。

 成長なんてしていないんじゃないか
あの音楽室で声が出なくなった自分と何も変わっていないんじゃないか
音大に行っても、結局何の成長もできずに終わるんじゃないか
ここに溜まっている期待に、応えられないのではないか
そんな自分が、ここに立っていていいのだろうか

 体の震えは冬のせいだと言い聞かせながら、あの時に似た表情を見回す。
 後輩、顧問、担任、家族、役所の人、タクシーの運転手、喫茶店のマスター、子どもの頃飴をくれたおばあちゃん、よく知らないけどカメラを向けてくる人
一面の戸惑いの中から、私は一着のコートに目を留めた。

 私が通っていた中学校のものだ。
 彼女は私を見上げている。
その目は見開かれている。

あの日もこんな青空だった
初めてこの駅で卒業生を見送った日

 中学二年生の私は、歌が終わった後拍手をしてそれからずっと卒業生の姿を見ていた。
歌の美しさへの感動の隙間に寒さが入り込んでくるのを振り払うように、卒業生の緊張した姿を見上げていた。

 あの頃の私には、高校三年生はとにかく大人に見えて、
自分もあのようになれるだろうかと思いながらただその姿を見ていた。
とにかく、大きかった。
体の大きさ以上に、積み重ねたものがあるように感じた。
私も、そうなれたら。

 彼女は、あの時の私と同じように私を見上げている。

 私は自然と頭をあげていた。その動きにざわつきが止まる。

 気がつくと雪がちらちらと降っていて、髪の毛に絡んできた。
「髪を切る時間さえ面倒臭くなる」という書き込みを読んで短く切ったから、そこから冷気を地肌に感じる。
はらおうとも思ったが、しばらくはこの感覚も味わえないだろうとそのままにする。

 もう一度だけ見る彼女の目。
彼女の目は「憧れ」なのだろう。あの時の私と同じように。
少なくとも、私は彼女が憧れられるぐらいには成長したらしい。
その分ぐらいの自信は持っていい。

昨日の夜はなんて言おうとしてたんだっけ。
まあ、いいや。

 私は胸の上に手を置き、お腹の下の方に意識を置く。
腹式呼吸。私が部活に入って、最初に覚えたことだ。
そして、彼女も最初に覚えることになる。

大きく息を吸う。
うん、いける、大丈夫。

「行ってきます」

 考えるよりも早く口にしたその言葉が終わると同時に、駅はまた手袋ごしの拍手に包まれる。

 ボン ボン ボン ボン

「さあ、乗って」

 運転手に促され、私は電車の中に入る。
予定より出発が遅くなっているのだろう。私が入るとすぐにドアが閉まった。

「いってらっしゃい」
「合格おめでとう」
「たまには帰ってくるんだよ」

 窓越しにそんな声を聞きながら空を見た。
相変わらず雪は降っているが、空は相変わらず水彩画かのような優しい青さを讃えていた。

私は、その青さを目に焼きつけつつ目をつぶる。

あおげば尊し
わが師の恩

 後輩たちの歌の記憶が、私の心と体を巡る。
いい歌声だった。きっと次のコンクールでもいい結果を出してくれるだろう。

 その歌とボンボンという拍手が交じり合い、さらにピアノとストレングスが飛び込んでくる。
知覚の大きな街へ遊びに行くたび、コンクールに出るたび、何度も何度も聞いてきた数秒の音。
この駅のもう一つの名物である発車メロディーが鳴り、電車が動き出した。

 どんなことがあるかはわからない。
きっと、今想像もしていないような辛いことだってあるだろう。
何もできず、ただ挫折する可能性の方が高いのかもしれない。

 そんなことを考えていても、不思議と不安はない。
目を開け、電車が加速する前に椅子に座る。
何度も見た、駅のホームを超えた後の雪原。
少し離れたところにある町を窓越しに見るのが、いつも好きだった。
この光景も、しばらく見ることはない。

「そのうち帰ってくるね」

 そう一言呟いて、目を閉じた。

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