排除と嫌悪
不安になると苦しい。
自己肯定感のなさは安心感のなさじゃないか。
不安になる時にいつも、疎外感、寂しさがある気がする。
自分とカースト上位の断絶。
スクールカーストならぬ社会カースト、惨めさを感じること。
理論により正当化を図るが、理論は感情に応えるために使うものではないのではないか。
しかし論理的であることの正当性を客観の感情で判断しているから安心する。
理論の役割は常に感情を答えることではないのか。
客観は批判されうる特性を探す、不安の仕組み。
何者かの生存政略を恐れている自分自身による仮想客観。
それは自然を不当とみなす敵の幻影。
彼らもまた、何かを恐れている。
正当と不当の分類をして、批判し、嫌悪し、怯えあっている様な社会のイメージが見えてくる。
みんな排除と嫌悪を恐れている。
そして怯えの根本たる生理的嫌悪、恐怖そのものは、もはや取引道具であり、社会表層にはいないのではないか。
例えば表明の仕方や、または黙秘するなどで、自分の社会常識から見て取れる立ち位置を調整することを考えて、またそれらの行為を否定することで新しいレイヤーが生まれ、十分に複雑化していき、だからこそ我々はあれこれ言い争うんじゃないか。
身体的特徴、声、運動能力、そのあたりの原始的な情報への生理的嫌悪と称される誰かの主張の本質は生理的嫌悪なんかではなく、その人の立ち回り、スタンスによる社会(自分の客観)へのメッセージ。
いろいろと垂れましたけど、なんにしたって攻撃は不安からくることが多いもので、結局そのことを考えていた。
攻撃的ななにかしらで苦しくなった時には、その敵(の幻影)からの否定的メッセージもまた不安故の戦略であり、この広い社会で必死に生きてる感情の頑張りなんだろうか。
眠い。
眠いしなんかつらい。
眠いとこういうこと長いこと書いているときが多い。
碌な夢を見なさそうなんだ。
寝起きの不安がいやなんだ。
ねづらいな。
ことばにならなかったことがこの世にどれだけあるか。
聴こえなかった声が、どれだけあるんだろうか。
また夢を見ている。
自分は間違っているのだろうか。
つらいよ。眠いよ。眠いよ。