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アメリカでは絶対に再現不可能な『パワーレンジャーSAMURAI』の薄っぺらさ

現在『POWER RANGERS SAMURAI』がYouTubeで配信されているのだが、本家の『侍戦隊シンケンジャー』との比較を抜きにしても、非常に薄っぺらい戦隊なのだなあと感じられてしまう。
何が酷いといって、まず第一話の開始時点で5人の侍たちが稽古している場面からすごくフレンドリーな雰囲気を醸し出しているのだが、セットの安っぽさはもちろん5人がそもそも竹刀を振るっているのが奇妙である。
しかも5人きちんと揃って名乗りを丁寧に行うのではなく4人で変身し名乗った後に、グリーンがやって来て勝手に個人で活躍するという、原作の世界観・物語を完全に無視したことをやっていた。
この時点でイライラするのだが、更に巨大ロボ戦もわざわざめんどくさい「超」なんて画数の多い感じを書かせた上で、コックピットのセットや変身後の衣装が変わるのもダサい。

本家「シンケンジャー」のコックピット
パワレン版「SAMURAI」のコックピット

比較してもらえればわかるが、本家「シンケンジャー」のコックピットは和のテイストを重視した金屏風であり、変身後のスーツもシンケンマルも決して変化している訳じゃないのだ。
それに対して、パワーレンジャーのサムライメガゾードのコックピットはそういう和のテイストを完全に無視しており、スーツや刀がなぜ別物に変形しなければならないのかの理由がない
そして何よりも謎なのはそもそもこのサムライ5人が一体どういう風な経緯で侍を志したのか、そもそもなぜアメリカという国に侍戦隊が存在するのかが不明なので、土台から支離滅裂だ
別に和風の戦隊を海外でやるなとは言わないが、やるならやるでアメリカに侍が存在することの色気をきちんと表明してくれないことには、本作の世界観やビジュアルは成り立たないのである。

そもそも現在配信中の「カクレンジャー」からしてそうなのだが、和風モチーフの戦隊の中できちんと「主従関係」というものが画面の運動として活写しているのは「シンケンジャー」のみだ。
「カクレンジャー」は大元が「西遊記」に基づく珍道中を基調とした股旅物であり、決して鶴姫と他の忍者たちの主従関係の要素が作品の中心として描かれていたわけではない。
続く「ハリケンジャー」にしても、あくまでそこに出てくる忍者たちは「現代風の言葉遣いや価値観の延長で動く普通の若者」であり、そこに異世界間のような要素はないのである。
忍者同士の戦いを「カクレンジャー」以上に描いてこそいるものの、そのメカニズムはほとんど科学技術による裏付けがなされているため、決して和風ファンタジーとして完璧ではないのだ。

「シンケンジャー」が唯一真正面から作品として取り組み、後の「ニンニンジャー」「ドンブラザーズ」ではあえて避けられていた「主君と家臣の主従関係」は実はとても博打的な要素である。
何故ならば主従関係が時代錯誤な制度だからであるが、それを描かないことには異世界がかったような感じを演出することもできず、武家社会のエッセンスを絵空事として描かないといけない。
それこそ「水戸黄門」「暴れん坊将軍」といったテレビシリーズで描かれていた時代劇がそうだが、あれは極めて紋切型の主従関係が1つのフォーマットとして成立していた。
しかし、あれらはやはり「江戸時代」という設定だからできたことであって、それをハイテク化した現代社会において描くのは子供達にとっては難解に映りかねない要素である。

実際、小林靖子がメイン脚本を担当した戦隊のうち、余計な解釈・説明を挟むことなくストレートに楽しむことができる王道は『星獣戦隊ギンガマン』のみだ。
あとは、現在配信中の『未来戦隊タイムレンジャー』『特命戦隊ゴーバスターズ』『烈車戦隊トッキュウジャー』といずれもが理解するのに一定の思考力・読解力を必要とする。
そしてその中でも『侍戦隊シンケンジャー』は日本史でしか教わることのない戦国時代〜江戸時代の「主従関係」という強制力のある縦社会の上下関係を扱ったことでも大変な作品だ。
単純にレッドが最強で他4人が付き従っているだけでいいのではなく、「家系の宿命」という要素によって縛りが発生するから、決して単純な仲間とはいえない。

歴代戦隊の中でレッドが他のメンバーよりも頭一つ抜けた存在として描かれていたのは「ジェットマン」の天堂竜、「オーレンジャー」の星野吾郎、「ボウケンジャー」の明石暁だ。
しかし、「ジェットマン」の天堂竜は存在自体が「70・80年代戦隊レッドの反王道」のような存在として描かれており、唯一の正規戦士で実力は劇中最強だが、必ずしも他のメンバーが常に従っていたわけではない。
むしろ竜が上から目線で取ってくるマウントに対する反発も(特に前半は)多かったし、竜自体もジェットマンに選ばれる前までは仕事はできるものの抜けたところのある等身大の青年として描かれていた。
そもそも「ジェットマン」自体が「80年代戦隊の死と再生」を象徴する作品であったから、かつての構造的なものをどれだけ崩すことができるかを1年通して画面の運動として挑戦し、成功している。

次に「オーレンジャー」の星野吾郎も確かに5人の中では隊長として描かれているために完璧超人のリーダー像として描かれているが、あれはむしろ90年代に求められていないものを敢えて出して失敗した
そもそも「オーレンジャー」自体に変身前のキャラクターが役者も含めて色気(存在感)が希薄であり、きちんとキャラの魅力が書き分けられていないので、5人の関係は単なる会社の上司と部下程度でしかない。
そして「ボウケンジャー」のチーフこと明石暁は上司にしてリーダーでありながらも、その実チームを引っ張るとか全員を育てることに全く興味のない単独主義であり、単なる冒険バカである。
一応は上下関係が存在してこそいるし、初期に入隊したブルーとピンクは敬語を使っていたが、新入りのブラック・イエロー・シルバーは舐めた口を利いていたし、チーフもそれを咎めたことはない。

「ニンニンジャー」の天晴と他のメンバーたち、そして「ドンブラザーズ」の桃井タロウと他のメンバーたちも同じであり、力に上下関係はあったが人間関係としては割とフランクである
つまり、歴代戦隊の中できちんと私的な人間関係と変身後の公的な戦隊としての関係において明確な壁が存在し、どこか窮屈で閉鎖的な雰囲気が厳然たる制度として存在したのは「シンケンジャー」のみである。
だからこそ、第一幕から第十二幕にかけての1クールで初対面から徐々に距離を縮めていって「殿と家臣の主従関係」を現代劇として構築していくプロセスを見せる必要があった。
それを抜きにして、単に5人の若者が侍らしい振る舞いとチャンバラ時代劇っぽいことをやっていても単なる時代劇コント風のことをやっているだけの滑稽な絵面となってしまう。

時代劇というのはそれこそ日本の中にしか存在しない独自性の強いコンテンツなのだが、代表的なのは黒澤明の『七人の侍』『用心棒』『椿三十郎』『乱』辺りであろうか。
それらは世界中に影響を与えたのだが、わけても『荒野の七人』『STAR WARS』は黒澤の時代劇をどうやって洋画風に翻案するかに苦心し、決して単なる時代劇コントにならないように工夫している。
そんな中で、このパワレン版「シンケンジャー」が何の工夫もなくそのまま侍戦隊の世界観・物語・アクションだけをなぞったものにしているのはどういう了見なのであろうか?
しかも変身後のチャンバラの殺陣もカメラワークが下手くそだし効果音もヘボいし、名乗りの間や緩急といったところのセンスも皆無であり、1話で視聴を損切りさせてもらった。

そもそもそんな程度の技量しかない向こうのスタッフにも問題はあるのだろうが、やはりどこまで行こうとパワレンは所詮「ガキ向けに媚び売っただけの戦隊エピゴーネン」でしかない。
アメリカという国でチャンバラ時代劇を成立させるにはどうすればいいかを考えて独自に構築しなければいけないのを、向こうは足し算しかできないからああいう雑な改変になってしまう。
本当に、日本の素晴らしき「戦隊」という文化をこれ以上冒涜するのはやめて頂きたい、知性もセンスも芸術性も感じられないゴミクズである。

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