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『地球戦隊ファイブマン』最終回のシドンの花の詰めの甘さと90年代戦隊における「考え方=脳のOS」と「力」の関係

スーパー戦隊シリーズに関して最近「考え方=脳のOS」と「力」の関係について考えたのだが、実はここでどうしても引っ掛かりを感じてしまうのが『地球戦隊ファイブマン』で提示されていたシドンの花である。

近年、『地球戦隊ファイブマン』は再視聴の環境が充実したこともあり再評価も積極的にされるほどの作品になっているようだが、それでもやはり個人的にはどう高く見積もってもC(佳作)の領域を抜けきれなかった。
なんだか、『電磁戦隊メガレンジャー』に近いむず痒さ、惜しさを感じてしまうのである、「ここをこうすればもっと良くなったのに」という思いがどうしても拭いきれない。
奇しくも両者はそれぞれ翌年に『鳥人戦隊ジェットマン』と『星獣戦隊ギンガマン』という、戦隊史の中でも極めて歴史的価値の高い大傑作の手前に位置する資金石としても似通っている。
それぞれに持っているポテンシャル自体は高いにも関わらず、それを十分に活かしきれず今ひとつ消化不良気味に終わってしまい、道中にも多々難があると言う点も共通項としてあるだろう。

こちら「負けない」note術の方を購読いただいている読者の皆様は重々承知していると思うが、その戦隊がどういう評価になるのかはパイロット(1・2話)を見ればそこに答えが埋まっている
余程の例外を除けば、1話が凄かったのに最終回がひどかった、あるいは1話が酷かったのに最終回が良くなったということはなく、どこかで1話と最終話は繋がるものとなることに気づくはずだ。
そこに気づくことができないのは単に受け手の感性が鈍化しているか、あるいは立体的かつ客観的に作品の構造を見抜く読解力が不足しているかのどちらかでしかない。

まあそんなことはさておき、「ファイブマン」のシドンの花だが、これ自体は最終回でラスボスを攻略するキーアイテムとして1話から伏線が貼られていた。

画像を見てもらえればわかるように、星川家が宇宙へ旅立った目的はシドンの花のような植物を育てることで銀河中の絶滅寸前の星々を生き返らせ、銀河を潤わせようという目的があった。
そこを銀帝軍ゾーンによって星川家は散り散りになってしまい、5人の子供は20年もの間ゾーンへの復讐心を糧に身を寄せ合って生きてきたという背景設定がしっかり描写されている。
その絆が他の兄弟戦隊(『救急戦隊ゴーゴーファイブ』『魔法戦隊マジレンジャー』)と比較しても一蓮托生というか鉄の絆すぎて、もはや「兄弟」という感覚すら超越していた
どちらかといえばあれは「仕事仲間」あるいは「同居人」としての側面が強く、兄弟にしてはあまりにも関係性が理知的すぎるのではないかと思う。

そんな設定で始まった「ファイブマン」だが、よくよく考えてみるとそもそもなぜ1話から提示されていたシドンの花がラスボスのバルガイヤーを打ち砕く切り札たり得たのかということだ。
これに関しては最初に見た時から思っていた最大の謎であり、SF的に鑑みるとそれらしい意味づけはできているのだが、それでもイマイチ説得力が不十分であるように感じられた。

ここでも書かれているように、最終話の面白かったところはシドンの花それ自体ではなく、バルガイヤーが己のスキャンダル(メドーの失恋)を暴かれた恥ずかしさとみっともなさから弱体化してしまったことである。
物質的にシドンの花が苦手だったというよりは、それを媒介として己の所業が暴露されてしまったことに切れかけていた精神の糸が切れて完全に弱体化してしまったことにあるのではなかろうか。

シドンの花に関しては全体を通してさまざまな描写がなされていたが、実は「シドン星で星川家が栽培させた人工の花」であること以外何も明らかにされていない
どのような遺伝子交配によって生まれ、どんな成分があって、それがなぜバルガイヤーの致命傷たり得たのかを詰めていくと、そういった属性的な説得力はないだろう。
また、これに限らないが、「ファイブマン」は変身アイテムにしろ武器にしろロボットにしろ、それらが一体何をモチーフにどういう兵器として描かれているのか、そのイメージがからっきしだった。
単なる「対ゾーン用の決戦兵器」程度の大まかなイメージがあるだけで、そこからいったいどういう原理で用いられているのかという視覚的説得力があまりないように思われる。

「ファイブマン」がなぜ前作「ターボレンジャー」と並んで「打ち切りの危機」呼ばわりされていたかというと、大きな原因はこの「劇中で描かれる描写・設定の詰めの甘さと説得力の不足」にあるのだろう。
そもそも「地球戦隊」という名前の時点で捻りがなさすぎるし(よくもまあこんな安直なネーミングで企画書が通ったものだ)、そういう個々のイメージに血を通わせる作業がまるでできていなあったのではないかと。
「教師で兄弟」という設定に関してもその変身後のキャラクターに十分反映されていたとはいえず、明らかな初期設定のミスというか齟齬があちこちで目立つものだったのではないだろうか。
そういう諸事情も相まって、結局のところ「シドンの花」が対バルガイヤー専用の決戦兵器足りえなかったのは事実であり、どうにも最後まで詰めの甘さが目立った。

よく言われるのはバルガイヤーが直接的な「死」のメタファーであり、シドンの花を育てたファイブマンらが「生」のメタファーといえるが、そのメタファーを象徴する仕掛け・仕込みとしても弱かった
例えばこれがシドンの花にはこういう物質が含まれており、その物質がバルガイヤーにとっては致命傷になってしまうという位の設定・描写は必要だったのではないだろうか。
メインライターの曽田博久自身が『超電子バイオマン』で打ち出した反バイオ粒子や『電撃戦隊チェンジマン』の反アースフォース、『超新星フラッシュマン』の反フラッシュ現象のようなものの延長線上だ。
そう捉えることは可能だが、それならばそれでもっとその設定を細かく詰めておけばバルガイヤーがシドンの花で弱体化する流れにも説得力が生まれただろうに、なんとも勿体無い。

曽田脚本を含め80年代戦隊が「ファイブマン」をもって示した限界点の1つは「考え方=脳のOS」と「力」の関係が単なる「テーゼとアンチテーゼ」という平面的な二次元性に終始してしまったことだ。
主人公が持つ強大な力に対してそれを打ち消す反発属性の超パワーを敵が持つという構図自体は面白いのだが、こういう力比べはやり過ぎると結局のところイタチごっこでしかなくなる。
少年ジャンプが陥っていた「強さのインフレ」というやつであり、これは車田正美もゆでたまごも荒木飛呂彦も鳥山明もみんなその弊害から逃れることはできなかった。
その中で曽田博久という脚本家は横国出身大の理系で学生運動の元活動家という珍しい経歴の持ち主だったから、それを存分に活かした作風がスーパー戦隊を根強く支えていたというのに。

しかし、逆にいえば「ファイブマン」までで行き詰まっていたヒーローの「考え方=脳のOS」と「力」の関係がうまく描写できなかったことが翌年の『鳥人戦隊ジェットマン』以降に反省点として活かされているだろう。
例えば「ジェットマン」では終盤でバードニックウェーブを無力化する隕石ベムが現れて、それに対抗できるバードニックエネルギーならびにネオジェットマンという設定が出ていた。
さらに『五星戦隊ダイレンジャー』では「敵と味方が同じ力で戦う」という設定を打ち出し、気力=陽と妖力=陰という東洋的な陰陽五行思想を取り入れることで両者の力関係を対等なものとしている。
それらを踏まえて、『激走戦隊カーレンジャー』ではそれこそ芋長の芋羊羹がシドンの花の如くラスボスのエグゾス攻略の切り札となったのは「ファイブマン」へのオマージュないしパロディとも取れるだろうか。

そうしたことを考えていくと、『星獣戦隊ギンガマン』も実はギンガマンがアースと星獣、そしてバルバンが星の命と魔獣という同質の力を用いて戦っているし、『救急戦隊ゴーゴーファイブ』のプラスエネルギーとマイナスエネルギーもその流れを汲んだものだろう。
そして「ギンガマン」ではナイトアックスも含めてシドンの花で不満に感じた点を全て解消しこれ以上ないラスボスの倒し方を提示していたと言えるのだが、これはまあ次の「ギンガマン」配信の時にでも語るとしよう。

いずれにせよ、「ファイブマン」までを1つの臨界点として、スーパー戦隊が「考え方=脳のOS」と「力」の関係に関する再考を迫られていたことは揺るぎない事実だ。
そういう意味では「ファイブマン」も捨てがたい魅力は感じるものの、当時のスーパー戦隊の行き詰まりを感じさせる悩みの種だった限界が色々と伺えて面白い。

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