【掌編小説】桜木町ラブストーリー
今の新しい桜木町ではなく、
少し昔の桜木町に、私のバイト先があった。
そこはとても不思議なところで、現在では普通なのだが、
イケメン男性がお客様達にサーブする場所だった。
私は田舎から出てきたばかりで、
なんとか生活しなければならなかったから、
少しでも時給が良いところを探していた。
そこが、他よりちょっと良い時給だったので面接に来たのだ。
なんのことはない。
男性がメインなので、女性陣はキッチンの仕事をする。
お客様に出す料理作ったり、残ったもので賄いを作るのも女性陣だった。
そこには主と呼ばれる年配の女性がいて、采配を奮っていた。
残り物の野菜や肉から作られる野菜炒めや、カレー、名前のない食べ物など、
本当に彼女が作る料理はおいしかった。
「お腹が空いているとお客様の前で、もの欲しそうな顔になるからたくさん食べな」と、
男女共にどんぶり飯で食べさせられた。
何人いたのかは覚えていないが、一度の賄いで一升用の炊飯器が空になる。
オカズも残り物とは思えないほど品数があり、
これを外食したら2000円は取られるだろうと思いながら私は黙々と食べていた。
そのとき、私は二十歳になったばかりだった。
なにも知らない私に 、主(ぬし)の女性は根気良く包丁の研ぎ方やピーマンの効率の良い切り方などを教えて貰ったものだ。
そして、帰りには、注文ミスや、
お客様が手付かずになったピザとかポッキー、
チョコレートなんかをアルミ泊に包んで毎日持たせてくれる。
「これで1食浮くからね、お金は大事に貯めなさい」と、みんなが見ていない所でバッグに押し込んでくれた。
野菜スティックなんかで使われたあとの、残りのセロリの茎や葉を綺麗に洗って野菜炒めに入れると、本当に美味しいことを私は発見した。
ずっとここでバイトしていたいと思ったくらいだった。
男性陣はイケメンばかりで揃えているせいか、
女性だけのグループのお客様もたくさんいた。
なかでも一番人気は中国人の留学生のリュウだった(本名は違う)
スマートで背が高く端正な顔をしている。
有名な国立大学にいて、日本語なんてスラスラ話す。
仕事も真面目で人気があっても
誰にも特別扱いをしなかった。
そして、イケメンがいる料理がおいしい店として、そこは本当に繁盛していた。
ある日、私はバイトの緊急連絡でリュウに電話をしたことがあった。
まだ携帯電話なんて高くて持てない頃だった。
リュウのお母さんは、私が事情を話すと気軽にリュウに繋いでくれた。
「リンリンー、電話よー、ユイさんって人」
そうだった。
確か中国の人って子どもを呼ぶときに下の名前を重ねるのだ。
リュウはいつもクールでポーカーフェイスな印象だったので、
「リンリン」とお母さんに呼ばれていることに驚いてしまい、伝えるべき内容はもう覚えていない。
リュウ=リンリンなのだが、
リュウはそのことを知られたくないように感じたので、私はバイト先でもその話をしたことはなかった。
ここのバイト先にはチーママがいた。
オーナーの雇われママだったが、オーナーとデキていることは周知の事実だった。
チーママとは、仕事の前に殆ど毎日買い物に出掛けたので覚えているが、
店の買い物と自分の家の買い物を一緒にしていた。
レシートとは別の領収書を書いてもらっていた。
高級牛肉が三枚なんて、バイト先では絶対に使わない。
私がどんなにバカでも気がつく。
要は私は荷物持ちだったし、誰にもチクらないと思われていたから、チーママは私を体良く使っていたのだ。
リュウが本名ではなかったのと同じで、
私はユイと呼ばれていた。
「ねえ、ユイちゃんジーンズの他になんか着る物ないの?」とレジのお姉さんから毎日のように言われた。
レジのお姉さんはお化粧が上手でオシャレな人だった。
酔った男性客はいつもレジのお姉さんに電話番号を聞き出したり、お尻を触ったりしていた。
「本当に持ってないんです」と私が言っても、
「私のいらない服を上げてもいいんだけどさ、サイズが違うのよねー」と、レジのお姉さんはため息をついていた。
事実、まだ引っ越ししてきたばかりで、着るものにまわせるお金なんて持っていなかった。
ある時、カウンターに知らないお爺さんが座っていた。
私はたまたま男性が足りなくてお通しを出しに行ったのだが、これが後で大問題になるなんて思いも寄らなかった。
「あんた、うちの社長に色目使ったでしょ!」と、チーママは私を呼び出して言った。
「?」
「こないだアンタを見かけた社長が、
アンタを気に入ってチーママにしたいって。
私の仕事を取る気だったの!?」
「そんなことないです。
その人が社長だということも知りませんでした」
私がそう答えると、
「怖い女だよ、こいつは……この女狐め!」とチーママは私に雑巾を投げつけてきた。
チーママは一緒に暮らしている男性がいるから、
生活がかかっているのだ。
でも、社長と関係があり、尚且つ同居している男性がいることに私は疑問を持っていた。
高級牛肉三枚も、自分と子どもとその男性の分だということは私も気がついていた。
社長に知られたら、クビだとはわかっていたと思うが、
社長も伊達に社長になった訳ではあるまい。そんなことはとうの昔から知っていたのだ。
私がチーママとか以前に、解雇させる理由を探っていたのであろう。
だからあの日も社長は偵察する為にカウンターに座っていたのだ。
雑巾は私のジーンズの膝に当たった。
それを拾ってチーママを見ると、
いろいろな色のラメの入ったドレスを着た、厚化粧のチーママが私を睨みながらまだ悪態をついていた。
あまりにも酷い内容だったので思い出したくもない。
ここを辞めよう、そう思ってチーママから解放されたあと、私はなんとなく居場所がなかったのでフキンを消毒して干していた。
「ユイ、いい?」
リュウが物干し場に立っていた。
リュウは本当に顔が小さい。
だから余計に身長が高く見える。
どこかの俳優に似ていると思ったけど思い出せなかった。
「ユイのこと聞いたよ。
でも、仕事をしてればどこに行っても嫌なことはある。
僕はユイにここに残って欲しいんだ」
と、いきなりリュウは私を抱きしめた。
信じて貰えなくても構わないが、
私が男性とそういうことをしたのは生まれて初めてだった。
自分の心臓が飛び出てくるかと思われるくらいにドキドキしていた。
リュウの身長が高いので、
私の頭はリュウの胸のところにピッタリとくっついていた。
リュウはもう一度、私を強く抱きしめた。
「チーママはそのうちにクビになるから、それまで我慢できない?」
なにか答えると、なにかが始まってしまいそうで怖かった。
「リュウ、ありがとうね」
そう言って私はリュウの腕から逃げるように走った。
なんとなく気がついてはいた。
緊急連絡網の順番が変わったときに、バイト仲間のみんなはニヤニヤしていたし、
リュウを冷やかしていたりしたけど、自分には関係のないことだと思っていた。
私は仕事を覚えるのに一生懸命でそこまで気がまわらなかったのだ。
仕事の合間に呼び出されたときは、
チョコレートが好きな私に、お店の高級チョコレートを
「内緒だよ」とウインクしながら紙に包んで渡してくれていたのもリュウだった。
賄いを食べるときに、何故かいつも私の隣はリュウの席と決まっていた。
私はリュウを嫌いではなかったが、
好きでもなかった。
これは嘘偽りのない気持ちだ。
彼が中国人だったからでもなく、
ただ、私がコドモ過ぎただけなのだ。
田舎から出てきた私には、桜木町はきらびやか過ぎていた。
ジーンズとTシャツの私は、
ただそれに怯えることしかできなかった。
桜木町のバイトを辞めたあと、
私は渋谷で働いていた。
今度はTシャツとジーンズではなく、
ちゃんとドレスも着て、ヒールも履いていた。
リュウとは、
あれきりで連絡も取らなかった。
もしあのとき、
私がバイトを辞めずに残っていたら、
私の人生は変わっていたのかもしれない。
「東京ラブストーリー」のラストで、
もし携帯があれば、カンチとリカは結ばれたのかもしれない。
それと同じように、
私とリュウとの間には、運命の輪が回っていなかっただけの話だ。
リュウは女性にはモテモテだったから、
私のことなどすぐに忘れたのに違いない。
だが、パンダのリンリンの名前を聞く度に、
このほろ苦い恋愛と、初めて急に抱きしめられたときの男性特有の匂いを思い出してしまうのだ。
※ 『東京ラブストーリー』作者 柴門ふみ