P.V.L.日記 父子入院29日目 退院
5月30日(月)
気が付くと5月が終わっていた。約1ヶ月過ごした病院から今日で退院だ。退院の前後は出会った皆さんが何度も挨拶にきてくれる。同じ時期にリハビリを受けた皆さんとは、同部屋でなくても合宿の一体感のようなものが芽生え「また会おうね」と再会とお互いの成長を願う。息子は、一度でもリハビリを担当していただいたセラピストの顔を記憶しているようで、すれ違うたびにまるで地盤の強固な政治家のように「よっ」と手を挙げて挨拶していた。
脳室周囲白質軟化症(PVL)は完治しない。しかし進行性の病気でもない。ただ、麻痺した身体なりに工夫して四肢を使っていく過程や成長による体型の変化で筋がこわばったり、背骨の湾曲が発生したりする。二次的な影響が強い。息子の場合もそれを予防しながら、可動域を広げ歩行動作を獲得するためにリハビリや日々のストレッチに取り組んでいる。退院したからもう大丈夫ということではなく、長く付き合っていくものである。完治しないと書いたが治験段階では臍帯血による再生医療治療がある。脳細胞の再生から運動をつかさどる神経系が蘇るという希望もあるそうだ。
最後のPTでは、先日撮影した写真を編集した「自宅ストレッチマニュアル」を頂いた。当然、入院より自宅での時間の方が圧倒的に長いので、丁寧に作られたマニュアルは助かる。セラピストに助言をもらいつつ1つ1つの解説を見ながら私が息子に施術する。これを今晩から毎日欠かさずやろう。息子が気に入るように表紙には電車の写真。大阪地下鉄谷町線と松坂行きの近鉄電車。どちらも先週に息子がリクエストした電車だ。しかし、どうやら今日の気分は「御堂筋線」らしく「これじゃない」と指摘が入る。やはり3歳児は難しいものだ。
妻も合流したところで、最後に主治医からのフィードバックを受けた。昨年の入院時よりも様々な数値が向上していた。息子本人が持っている潜在能力はもっとあると信じたい。SDR手術に関しては、もし必要になってから準備していては時間が掛かりすぎるため、今から沖縄の病院で事前診断だけしてもらえるよう紹介状をお願いした。産科医療補償制度の申請書類の準備も依頼し4歳になった時点での申請に向けて進みだした。病院からの診断と留意点をまとめた書類は幼稚園と神戸市の東部療育センター宛に書いてもらった。
退院してからも忙しい。神戸市在住で大阪市の病院を受診したため、入院費は限度額申請が適用された費用を一旦クレジットカードで支払う。後日に区の窓口で手続きをすると神戸市のこども医療の補助額と差し引きした差額を返金してもらえる。手続きはすぐにしよう。お金は大事。PVLの診断前に加入していた保険から出る入院費の請求もすぐにしよう。ただ、何かと窓口に出向かないとできないことが多いのは、そろそろ改善して欲しいところ。介助の当事者は子どもを連れてそう何度も窓口に出向けない。
病院から自宅に届ける荷物を配送マッチングサービスの「ピックゴー」に取りにきてもらうまで、昼食を近所の福寿司さんでとる。病院から徒歩1分にもかかわらず来る機会がなくて2年目にして初入店。息子も人生初カウンター。「回転していない」ことに驚いていたようだが、ちゃっかり「いくら」を自分で注文。選択が渋い。助六じゃなかったか・・・。さらに大将の故郷が妻と同じ石見地方と判明し距離感が縮まった。また通院リハビリの帰りに食べに来よう。
来年もまた入院する必要があるとしたら、今度は介添えなしの単独入院かもしれない。こうして親子で入院し一緒にリハビリに取り組むのは最後かもしれない。そう思うと少し寂しさもある。父母ともに入院を経験できたのは、息子と向き合う時間がどちらかに偏ることなくよかったと思う。
退院の前日に看護師さんと少し話す時間があって、私は「親にできることは、彼が何かに挑戦するとき助けや協力を求められる大人をできるだけ多く持つこと」と言った。「自立する」とは「頼り先がいくつもあること」だと思っている。もしもピアノを習いたくなったら、あの人に連絡するといい。もしも、オムライスを美味しくつくりたくなったら、あの人に連絡するといい。もしも、バックパッカーの旅をしたくなったら、あの人に連絡するといい。もしも、経済学を学びたくなったら、あの人に連絡するといい。もしも、プログラミングで悩んだら、あの人に連絡すればいい。もしも、メイクに関心があれば、あの人に連絡すればいい。そんな「あの人」をたくさん紹介できる両親でありたい。息子の「自立」はその先にある。
神戸へ戻る快速電車のなかでは二人とも寝入ってしまった。父子入院が終わり、もうすぐ灘の摩耶山が見えてくる。週末は久しぶりに摩耶ケーブルに乗ろう。(続く)
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