日本社会に於ける“英語ではない英語的な何か”
日本社会には英語っぽいけど英語ではない何かが数多く存在します。
これはネイティブの英語話者には通じない和製英語や間違った用法で定着した英単語などのことで、他国から輸入されてそのままの意味で使われる外来語とは異なります。英語を扱えるようになろうと真剣に取り組んだことのある方なら一度は「えっ!?子供の頃から使ってるけどこれって英語じゃなかったの?じゃあネイティブに通じるように勉強し直さなくちゃ…。」と、学習の二度手間を感じた経験があるのではないでしょうか。
また、日本人を相手に日本語で会話している時とそうではない国・地域の方々と英語でコミュニケーションをとっている際に特定の言葉をいちいち置き換えなければならないという経験に「何故頭が混乱するようなこんな状況が放置されているんだろう?」と疑問に思ったことがある方もいらっしゃるのではないかと思います。
実はこうしたネイティブの英語話者に通じない言葉はPseudo-anglicismと呼ばれ、ドイツならHandy(携帯電話)やBeamer(プロジェクター)、フランスならFooting(ジョギング)の様に他国にも存在するのですが、中高6年間の英語学習を終えても禄に英語を扱えるようにならない日本人にとっては相対的により深刻な問題です。
英語ではない英語的な何かの具体例
例えばSmartは日本で『痩せている』という意味の単語として認知されていますが辞書をひいてみればそんな意味は無いことがわかります。Smartは『賢い』が原義です。
00年代はネットスラングとして見かけた『ビッチ』という単語は近年テレビでも聞くようになり社会に定着したように感じます。が、英語のBitchには日本で使われている様な意味はなく『嫌な女』が本来の意味。日本で使われているビッチに対応する英単語はSlutかWhoreですが(これらは非常に侮蔑的・攻撃的な言葉なので使用しないことを推奨します。)、恐らく日本人がネイティブの英語話者と友人になり下世話な雑談をしていたとしたらBitchをそういう意味で使ってしまうこともあるでしょう。この場合厄介なのはSlutを使う様な状況でBitchを使っても一応文脈的に通じてしまう可能性がある為、間違いに気付くこともなく会話相手との齟齬を確認することもなくそのまま流れてしまう可能性があることです。
Chorusという単語は英語圏では日本で言うところの『サビ』を表す音楽用語として一般的に使用されています。その為英語で「あいつの曲にはChorusが無いんだ。」というのは『パッとしなくてサビがサビに聴こえねぇよ。』という悪口として機能するのですが(Verse - ChorusやVerse - Pre-Chorus - Chorus形式のポップミュージックを前提としています。)、日本人はChorusのことを英語圏でいうところのBacking Vocal(メインのボーカルを支える為のハーモニーや1オクターブ上や下のユニゾン)の意味で覚えているのでこの悪口を聞いてもポカンとしてしまいます。
例えばロビー・ウィリアムズの発言をNMEが取り上げたこの記事が正しくそうなのですが、これを日本語訳したrockinon.comの記事は『コーラス』を『サビ』に置き換えるべきであるように思います。
因みに、Chorusには大規模な合唱団を指す意味もあるのですが、似た用途の言葉としてChoirがあることもあってかこれらを正確に使い分けている人は滅多に見かけません。寧ろ音楽に関連した会話の中でChorusという単語が登場する時というのは殆どの場合楽曲構造の『サビ』を指します。
『テンション』という言葉は日本では気分の高揚具合を表す単語として使用されていますが、Tensionという英単語は『緊張』が原義のため英語コミュニケーションでは日本のような使われ方はしません。英語圏で自身の気分を表す場合はI'm exited(自分は興奮している)やI'm feeling down(自分は気分が落ち込んでいる)といった表現が使用されます。
最後に、耳にしない日は無いというくらいよく聞くSNSですがこれも基本的には通じません。英語圏でこれに対応した言葉はSocial Mediaで、日本では英語を日常的に扱っていらっしゃるであろう大学教授や研究者など一部の人が使っているのを見掛けますが、それ以外の方々の間ではビジネス用語としてもSNSの方が使用されているから驚きです。
これらはほんの一部であり、例をあげていくと枚挙に暇がありません。
何十年も昔からある和製英語や間違った用法の定着だけならまだしも、日本はでここ10-20年くらいの間にも最新の『英語っぽいけど英語ではない何か』が生み出されているのです。
最後に
言葉は学校教育だけでなく社会全体で作られていくものなので文科省をはじめとする教育現場だけに文句を言っても仕方ないでしょう。更に、一昔前であれば新しい言葉が広まっていく過程で雑誌やテレビが大きな役割を果たしていましたが、現在は構図が変わっている為「こうした状況の誰に責任があるか?」という話をするにしても状況が複雑化しています。
しかし、長年『グローバル社会に対応する為』なんて言葉が躍り続けている日本で英語学習の中に存在するこうした二度手間を放置しているのは非常に非効率的であることは間違いありません。
『日本人の多くが英語を扱えない』というのは今も昔も変わりませんが、そんな中でも少数の『英語の読み書き・英会話を自由に出来るようになりたい』という人の時間すらも無駄にしている現状はもっと重要な社会問題として認識されてもいいように思います。
国際舞台で生き抜く日本人を育て上げる気概が本当にあるのなら、英語学習を阻害する様な要素を是正することくらいは出来るのではと思ってしまうのです。