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15C初頭~ラッスス、パレストリーナへの道、モンテヴェルディ、とそれ以降。友達 F・K 氏との雑談

2017.06.08 Thursday | 

youtubeでみつけた或る録音。

これは一体いつの時代の、なんだろう...という問いからはじまった会話

K君に質問してみる...。 Rは私。

K「いま聴いています♪

13世紀と14世紀の曲が多いです。

リストはここにありました!

http://ml.naxos.jp/album/A332

R「あ。あらなんだ。ランディーニも入っていますねえ。不祥のもあるっぽいなあと思っていましたが、やっぱりこの楽団!のはナクソスに入っていることは多いようです♪ やあ。。レヴェルディー(楽団)のだったのですね~。ありがとうございます! お騒がせいたしました。ナクソスにアクセスしてみます。」

K「CDを買って解説書をみたんですよー。

でも面白いCDでした! 教えていただきありがとなのです!」

R「え、おもしろいでしょう?! ...意図が、ありそうな気がしたのです。。

モンテヴェルディの装飾音につながりませんか。。そんなことではないのかなあ...」

K「モンテヴェルディまでは感じなかったですよ。」

R「そうですかー 残念 笑)」

K「モンテヴェルディが活躍したのって1600年の前半くらいだから、今回の音楽とはかけ離れすぎな気がするんです♪」

R「そっかあ。。。まあ、もし何かあるとしても、『間』に何か相当、入りますね。。。

私さいきんワロン人(ブルゴーニュ楽派?)のイタリア化と、イタリア人自身のより大きなイタリア的なるものへの融合(ヴェネチアにて!)と、それがやがてイングランドへ行くっていうことが、面白く感じています。 ......

ケルト的なもの(のなごり)がそうさせているのかなあ。」

K「モンテヴェルディの時代って、いまみたいにCDもないし、入ってくる情報って限られてくると思うんです。 モンテヴェルディが、マントヴァの地にいながら、彼以前の音楽をどんだけ知っているかはわからないけど、限定的なもんだったとは推測されます。」

R「土地が かつてのフランドルみたいに、いろいろなものが『入ってくるような場所』であれば、まだちがうのでしょうけれどネ...。んー あとは流通するのは紙以外では人(脈)だけですものね」

K「そうね、そうそう。 もちろん、モンテヴェルディに音楽を教えたお師匠さん(師匠というからには、モンテヴェルディよりも古い音楽を知っているひと)、それからモンテヴェルディはヴェネツィアに行くんですが、そこではいろんなものを吸収したでしょうね!」

R「『モンテヴェルディはヴェネツィアに行くんですが』——へぇ!!! にゃんとまあ。。。 レヴェルディ(la REVERDIE)、というこの、なにかと面白いものを録音する楽団は、ヴェネチアの楽団、なんです。なので歴史も勉強しているのかも...(?)」

K「‥‥それはあるかもですよ!」

R「モンテヴェルディ聞いてると、ランディーニや、チコーニアとその弟子ら(ロマーヌスなど)と、ワロン人の音楽とが融合した雰囲気が、もっと複雑になって、ずいぶん年月を経たのち、モンテヴェルディとなって出現してくるように聞こえたので...」

K「イタリーの系譜っていうのはあるかもね♪」

R「そう。...『ランディーニや、チコーニアとその弟子ら(ロマーヌスなど)と、ワロン人の音楽とが融合』→これは、ヴェネチアで起こって居ます...!」

K「モンテヴェルディと同時代の作曲家による作品を聴いてみる必要がありますね♪」

R「そうなんですよー それとか、モンテヴェルディの手前の音楽。。。

いまでこそイングランドが話題になってきやすいですが(ハイドンからブラームス はてはビートルズやロックまで、イングランドからバラードなんかの素材をとってきてるので)そのイングランドへ行く前に、遡るとイタリア(ヴェネチア)経由してるっていうことが、何かひっかかっているのです。。いつも。」

K「それは面白そうです!」

R「そうそう、ここまでしてきた話だと、おもにイタリアで、ルネサンスが花開いていた(モンテヴェルディよりちょい早いですがまあまあ同時期)というのも納得がいく気がしてきて(パレストリーナをはじめ...)、 それぞれ、引き出す主要素は違っていたけれど、このころのヴェネチア音楽から、それぞれ違ったもの(相面)を開花させたのかなあとか。」

K「パレストリーナがなんで、ヨーロッパの音楽史にあんだけ絶大な影響を与えたかというと、パレストリーナはローマのサン・ピエトロ大聖堂とかで働いていたでしょ。 ローマ・カトリックの総本山みたいなところでしょ。 そういうところでは、ちゃんと楽譜が保存されていて、死後も代々歌われ続けていたことなんです。 だから彼の対位法が原典というか教典のようなものになったんですよ。 だからバッハもモーツァルトも、パレストリーナのことはよく知っています。 たぶん知らない人はいないでしょう。」

R「『バッハもモーツァルトも、パレストリーナのことはよく知っています。 たぶん知らない人はいないでしょう。』——こういう点についていつもおもうことなのですけど...ね、そして、チェチリア運動がおこりました。が、あれはパレストリーナだけなんですか...。ラッススの音楽性ってすごいと思うのですが、ラッスス(ラッソ)は同時に、もしくはそれ(チェチリア運動の起こる時代)より前に、JSバッハの時代とかに、普及しなかったのでしょうか。」

K「どうでしょうね? バッハの時代にラッソの音楽を知っている人がいたかどうか。 教会音楽以外は使い捨てでしたからね。」

R「ラッススの属しているフランドル学派はフランドル学派で、ちゃんと楽譜を保存するとか、そういう作業はしていなかったのかなあ...」

K「教会音楽は、教会の管理がしっかりしていれば残っている率が高いです。 世俗曲の場合は楽譜が散逸する可能性が高いですよ。」

R「ラッススって、フランスとイングランドを訪問しています(せっかくのローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂楽長に就任したのに一年で離職し、パレストリーナに後任を譲ったあと)...。そのまえに、ウィキによると『マントヴァとシチリア、そして(1547年から1549年まで)ミラノに足を運ぶ。ミラノ在留中にマドリガーレ作曲家のオステ・ダ・レッジョ(Hoste da Reggio)の面識を得て、初期の作曲様式に影響を受ける。』ですって...」

K「ラッススの曲ってどれぐらいのこっているんだろう?」

R「youtubeで聞いてると、わりとそれなりに...パレストリーナより瞑想的で、形式を逸脱する分、バッハの不思議な部分には近いと思うんです(というかジェズアルド的なものに移りやすい?) バッハの、時々(短調作品にしばしば出現する)奇異な部分 というかクロマティクな意外性の部分...にも近づくかも...。ちょっと不気味な。」

K「バッハも特異な作曲家ですよね。 バッハがどうやってあのバッハになったかというもの面白い課題ですよね。」

R「そうなんですよねぇ~。パルティータ系とかではその面は出にくいですが、平均律とか、調律問題を兼ねた?音楽系でよくふっと出てくる、短調の、半音階志向ものに出現する...東洋無的な瞑想性があるのですが、だれか女性ピアニスト(シャオメイでしたか)が、じっさい東洋人の血が入ってるといったとか...。それはじっさい調べたのか、ピアニストとしての率直な感想などといった文脈かは、ききかじりなのでわかりませんが...私もまえまえから思っていたのですが、東洋的なものは、もしくは東西越境的なものは、やっぱりあると思います...」

K「音楽による百科全書的なものを目指したことは間違いないとおもいます。」

R「そうですよね。ありがとうございました♪」



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