自分の意思で
最近X(旧Twitter)を見てると嫌な情報ばかり目に入ってくる。
芸能人やインフルエンサーのスキャンダル、女性叩きや男性叩き、アイドルのファン同士の争いや、どうでもいいネットニュースだったり、そのほぼ全てがどこぞの誰とも知れない他人が巻き起こした問題なんだけど、たしかにそういう投稿に対して腹が立ったり、引用RTでこきおろしたくなる気持ちはわかる。
自分の正義(笑)に反する主張に対してはその正義を持ってして叩き潰したくなるものだ。
しかし正義の反対は悪ではなく、また別の誰かにとっての正義であるように、根本的に他人と100%理解し合うなんて不可能なこと。
それを理解しているはずなのに、そこを上手く煽るような投稿にまんまと乗せられて怒ったり悲しんだりする自分がいたりする。
今一度考えたいのは、その感じている怒りや悲しみは本当に自分の意思によるものなのか?と言うこと。
SNSを見ることによって、別に感じる必要がない怒りや悲しみを無理矢理感じさせられているのではないだろうか?
動物は危険をいち早く察知するために本能的に嫌なものに目が向くようにできているらしい。
そんな我々の中にある動物的反応を引き出すことによって、多くの人々をコントロールしようとするのが炎上商法の常套句だ。
そんなものに心のエネルギーを費やすのは随分と勿体無いと思う。
自分の人生に必要がないどうでも良い物事に嫌な思いや悲しい思いをするなんてバカバカしい。
様々な情報が荒波の様に渦巻く現代社会で、そういったノイズに意思を掬われないようにするためにも、目に入れる情報の取捨選択権は自らが握っている必要がある。
これはSNSだけではなく現実でも同じで、先ほど書いたように人間は本能的に嫌なものを優先的に注目してしまう生き物なので、ネガティブな情報が目に入ってしまうこと自体は仕方がない。
例えば100人中99人に褒められたとして、残りの1人に貶された場合、99人の素晴らしい褒め言葉よりもその1人だけのどうでもいい悪口の方が圧倒的に印象に残ってしまう。
そんな我々の動物的反応を超えて、人間として主体的に生きるためには、決して負のエネルギーに自らの意思を明け渡してはならない。
良いことは嫌なことの影に隠されてしまうか、または当たり前な存在になっていたりしてその存在に気がつかないことが多い。
言い方を変えれば、良いことなんてその辺に当たり前のように転がってるわけで、嫌なことに意思がコントロールされる前に自らの意思を持ってそれらに気付く冷静さと、負のエネルギーに飲み込まれない強さを持たなければならない。
負のエネルギーは、一見すると99対1でも打ち勝ってしまう強大なエネルギーのように思えるが、それは捉え方の問題で実際は取るに足らないことだったりする。
普通に考えて99人が褒めてるんだから1人の悪口なんて気にする必要なんてない。
どうでも良いことに感情を揺さぶられ、心のエネルギーを吸い取られる必要はないし、そんなものに人生の時間を費やすのは勿体無い。
これからはどうでも良い情報に惑わされずに、自分の意思は自分でしっかりと舵を取って、人生の航路を爆走していく所存である。