見出し画像

モラ桃の缶詰め

VR演劇『モラトリアム戦艦桃』の公演が終わり一週間が経過した。
せっかくなので散乱した『モラ桃』の欠片をかき集めてみようと思う。

ネタバレを多く含むので事前の観劇を推奨。
なお、本文は個人の独自解釈であり公式見解ではない。

物語

プロローグ

三人組の宇宙密猟団が"人魚"を探し求め、
とある星に降り立つところから物語は始まる。

密猟団は傍若無人に村を蹂躙、問答無用で人魚を捕獲する。
彼らが船に戻ると、知らぬ間に見知らぬ女が紛れ込んでいた。
"密航者"と名乗るその女は、亡命のため一味に加わる。

四人と一匹を乗せた密漁船は帰航の途に就く──。

桃源郷システム

意気揚々と出発したものの、星間を跨ぐ旅は果てしなく永い。
退屈な航海への不満を漏らす人魚と密航者に対して、
密猟団たちは "桃源郷システム" と呼ばれる装置の説明をする。

仮想世界の中で架空の物語の主人公になるということ。
物語には必ず "桃源郷" が現れ、訪れるのは困難だということ。
終わりの見えない物語であるということ。

彼らは仮想世界の主人公に扮して「もう一つの物語」に興じる──。

鎖国

長い旅路も終わりに差し掛かり、
目的地に到着する直前に事件が起きる。

母星の"鎖国"により突然の足止めを食らってしまうのだ。

立ち往生する密猟団をよそに状況は"時間"と共に悪化の一途を辿る。
燃料は底を尽きはじめ、無情にも人魚は腐り出す。

彼らは逃避するように桃源郷システムに没頭する。
次第に現実と空想の境界が溶けて消え、彼ら自身にもその見分けがつかなくなっていく──。

脱出ポッド

業を煮やした密航者は人魚を人質に取り、
緊急用脱出ポッドでの密入国を目論む。

密猟団は逃走した密航者の後を追うが、
姿を消した彼女を見つけることはできなかった。
そして脱出ポッドや食糧の有無から、密航者が実在しないことを知る。

結末

解決策を見い出せず絶望感が漂う船内で、
泳ぎたいと嘆く人魚を見て密猟団は決意を固める。

波の音がせせらぐ場所で、
霞に消えていく人魚の歌声を遠くに聞きながら、
物語は幕を閉じる。

解釈

本作を観て初めに抱く感想は「分からない」が正直なところ。

特に中盤から終盤にかけて疑問が絶えず襲ってくる。
「今どこにいるのか?」「何が起きているのか?」「何を目指しているのか?」

本作の考察は一筋縄ではいかない。
事態を飲み込もうとすれば無限の可能性が浮かび上がり、
気付けば押し寄せる台詞の波に捉われ、キリのない参照の渦に引きずり込まれる。

なので僕は物語的な解釈を中断して外枠から考えることにした。
脚本上の必然性 や キャラクタの言動に意味や目的は無いと仮定した。

不条理

登場人物の行動とその結果、時にはその存在そのものが、因果律から切り離されるか、曖昧なものとして扱われる。
登場人物を取り巻く状況は最初から行き詰まっており、閉塞感が漂っている。
彼らはそれに対しなんらかの変化を望むが、その合理的解決方法はなく、とりとめもない会話や不毛で無意味な行動の中に登場人物は埋もれていく。
ストーリーは大抵ドラマを伴わずに進行し、非論理的な展開をみせる。
そして世界に変化を起こそうという試みは徒労に終わり、状況の閉塞感はより色濃くなっていく。

Wikipedia『不条理演劇』より引用

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%9D%A1%E7%90%86%E6%BC%94%E5%8A%87

人は何に対しても意味を求める生き物だ。
"結果" には "理由" があると信じて疑わない。

弛まぬ努力は実を結び、罪を犯せば罰を受ける。
行動は必ず報いを伴うはず、そう考えるのは自然だ。

だが、実際はそうではない。
取り巻く環境や時期、はたまた社会情勢に左右される。
世界には元々そんな都合の良いルールや常識は存在しない。

"不条理"だ。

「世界の意味の追究」と「世界の明らかな意味のなさ」
この矛盾から生まれたジレンマこそが不条理の正体だという。

哲学者カミュはこれに直面したときの対処法を三つ挙げた。

【拒絶】
 自ら命を絶ち、人生を終わらせる。
【盲信】
 理性を捨て、あるとも限らないものを無根拠に信じる。
【受容】
 不条理を受け入れて生きる。

もし不条理に気づくことができれば、この世界が意味を持たないことに気づく。ということは個としての我々は真に自由であり、世界を客観的ではなく主観的に捉えることができるとした。個々が意味を探し求めて自分なりの解釈を得ていくことで幸せになれるのである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%9D%A1%E7%90%86

「意味を持たない世界で意味を探す」

これは観客に投げかけられた挑戦であり、
同時に密猟団に与えられる試練のように思えた。

モラトリアムとノスタルジア

言葉が意味や目的を持たないと考えたところで、
僕は自分が過去に経験した類似した事象を思い出した。

脈絡の無い会話に時間を費やし、生産性の無い茶番に明け暮れる。

それは「学生」だ。
言葉の意味など気にせず珍妙な音の響きだけで笑う。
むしろ無意味さすら楽しむ学生時代。

ふと作品タイトルに立ち返る。
「モラトリアム」は青年が大人になるまでの期間のことだ。

学生時代は好きなことだけして過ごす時間があった。
将来のことなど考えず楽しさだけ乗り切れる場所があった。
それが"永遠"に続くようにすら感じられた。

しかし 青年期の終わりにつれ、
"自分は何者なのか"を考え社会に出る準備をしなければいけなくなった。

あの頃はよかった。過去の幸福な時代や場所への郷愁。
過去を振り返ることは自分の目標や意味を見出すために必要である。
だが過去に固執すれば人は前進できない。

ノスタルジアは甘い誘惑だ。
退行と回帰を繰り返しながら彼らは考える。

自分は何をしたいのだろう。
自分はどこへ行くべきなのだろう。
自分はどうすればいいのだろう。

桃源郷と演劇

"桃源郷システム"は空想上の装置だろうか。
ロールプレイングゲーム? ソーシャルゲーム? バーチャルリアリティ?

「架空の物語の主人公となって陳腐なストーリーに乗っかって過ごす」
密猟団を誘い惑わし熱中させる桃源郷、まさに"演劇"そのものではないか。

彼らは、
演じることで自分と別の人物になり代わり、
演じることで現状と違う境遇に逃げようとした。

まとめ

というわけで最終的に僕は本作を、
「理不尽に進む青年期と、"演劇"で抗った者の心の葛藤」と解釈した。

「宇宙」は「時間と空間」を意味する。
演劇には空間を駆け巡り、時間さえ飛び越える機能がある。
あの日のあの景色も何度だって体験することができる。

彼らがラストシーンで、
社会に飛び出していったのか、
世界に飛び込んでいったのかは分からない。

本作が「演劇は逃避という演劇」であるならば、
その自虐的な自己言及にはいじらしさと愛おしさを覚える。

おわりに

VRChatを部活動のように例える人は多い。
その感覚は身に染みて理解できる。
"ノスタルジア"と"変身願望"が人々を蠱惑的に引き付ける。

ポリゴンと圧縮音声で再現された仮想世界でも、
人は想像力を以て自身の中で現実に再構築できる生き物だ。

物体に触れることすらできないこの世界で、
僕は人の情熱に触れ、アイデンティティに触れ、
時の流れに触れ、終わりを惜しむ哀愁に触れた。

ひとまずこの桃の缶詰はフタをして倉庫にしまっておこうと思う。
缶詰は時間が経っても美味いらしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?