伊勢うどんの成り立ちと歴史を考えてみた
伊勢うどんの歴史や発祥には諸説あり、そこがおもしろいところ。同人誌「伊勢うどんってなんですか?」を執筆するにあたって、うどん屋や製麺所、あるいは一般の方に伝わっている「俗説(言い伝え)」と、近代日本史が専門である皇學館大学の谷戸佑紀准教授が調査した「史実(文献などで確認できる歴史)」を、それぞれインタビュー形式で掲載したが、ここで改めて「私なりに伊勢うどんの歴史に関する見解」を考えてみたいと思う。もちろん数多ある説の一つとして。
俗説と史実
まず俗説だが、古くは江戸時代初期頃より、伊勢の農民が自家製のうどんに味噌からできた「たまり」をかけて食べていたのに発し、その後かつお節などでだし汁を加え食べやすくしたのが「伊勢うどん」の始まりという説が広まっているようだ。また店としては内宮参道にあった橋本屋が発祥で、約400年の歴史があるとされている。
それに対して谷戸先生が調べた史実によると、約400年前となる江戸時代(1603~1868)の初期には、伊勢地域で大麦を栽培していた記録はあるものの、小麦を栽培していた痕跡は発見されていない。
また大麦は粒のまま炊いて食べられるが、小麦は粉にしないと食べられない。そのため、農民にひき臼(手回しの回転式石臼)が広まる江戸中期まで、小麦を粉にして食べる食文化は農民レベルでは普及していないかったと考えられる。よって400年の歴史というのはちょっと怪しい。
うどんは中国から京都を経て伊勢にやってきた
※以下、谷戸先生との対談からの抜粋と再考。
『増補版 日本めん食文化の一三〇〇年』奥村彪生 (著)によると、うどんの原型は鎌倉時代(1185~1333)に中国から伝えられ、京都で切麦という名前で食べられていた。ただ製粉に使用する水車やひき臼は大変高価だったため、特権階級の食べ物だったようだ。
この切麦から生まれたうどんが京都で広まり、それが伊勢に伝わったとすれば(時期は不明)、家庭料理ではなく店で出す料理であるため、農村よりも町から先に広まるはずなので、伊勢うどんが農民の家庭料理発祥だとは考えづらいとなる。
うどんを作るのは難しい。小麦を粉にする道具、伸ばして麺にする技術などが必要なので、その点からも農民の家庭料理から広まったという可能性は低いのである。
伊勢うどんが登場する最古の文献
学術的に伊勢うどんを示しているであろう文献は、宝暦11年(1761)に書かれ、安永2年(1773)に補筆された『宮川夜話草』。外宮の鳥居前町である山田に住んでいる人が書かれた本だ。
当地のうどんは他に劣るものではないが、その製法は変わっていて、茶屋のうどんはおいしくないとか書かれている。少なくとも今から260年以上前には、具体的な記述こそないけれど『他所とは違ううどん』が食べられていて、茶屋でも提供されていたのだ。これは伊勢うどんと考えて良いだろう。
また江戸時代後期となる文久元年(1861年)の地図「宇治郷之図」には、内宮だけで6軒ものうどん屋が確認できている。よって伊勢におけるうどん文化は、江戸中期から後期にかけて広まったのではないだろうか。
伊勢のうどんが太い訳
ここからは私の想像となるのだが、江戸時代の中期頃に、ひき臼と一緒にうどんの製法が伊勢に伝わり、うどんを出す店が誕生した。ただ製粉技術も製麺技術もまだ洗練されておらず、細くて長いうどんを打つのが難しく、結果として太くて短めのうどんになったのではないだろうか。
伊勢の人はうどんという食べ物を初めて見たので、こういうものかと納得したのでは。日本のカレーがインドのカレーと違うように、日本のパスタがナポリタン一辺倒だったように、一種のローカライズの結果だった可能性を感じてしまう。
その太い麺を大鍋で柔らかくなるまで煮込み、(水道などない時代なので)釜揚げ形式で出し、タレをかけたものが、伊勢うどんの元祖では。そしてその調理法が、地元の農民レベルにも広まったのかも。
お店のオペレーションとしては、大鍋で麺を茹でて、麺が煮えたら提供を始めて、弱火で茹で続け(あるいは火を消して蓋をして蒸らしたかも)、鍋にある麺を売り切るようなスタイルであったと想像する。
茹でたてのまだ少し硬いときもあれば、でろでろに柔らかいときもあるというおおらかな食べ物だったのでは。大鍋を二つ用意することができれば、売り切れることなく提供することもできただろう。
あるいは茹でた麺をせいろにあげておき、注文に応じて温め直す、現在と同じスタイルだったのかもしれない。時代と共に変わったのかも。茶屋のようにうどんがメインではない店では、うどん屋から茹でた麺を買ってきて、温め直して出していたのかも。すべては推測。
タレが使われる理由
さてタレだが、現在の伊勢うどんは、たまり醤油(本来は豆味噌にたまる汁のことだが現在は小麦を使わず大豆だけで作る醤油を指す。また普通の醤油を使う店もある)をベースに、昆布、鰹節(カツオ以外が使われることも)、煮干しなどでとった濃厚な出汁に、みりんや砂糖で甘みを加えて煮込んだものが使われている。
真っ黒で濃いが、そこまで塩分は強くなく、どちらかというと甘い味付けだ。どこかすき焼きのタレを思わせる味。
出汁や甘味が歴史上、どの段階で加わるようになったのかは謎なのだが、ベースがたまり醤油であるという点は、どうやら伊勢うどんの初期かららしい。小麦を使った一般的な醤油よりも、伊勢湾を渡って岡崎方面からやってくるたまり醤油のほうが、甘味があって伊勢の人に合ったのだろう。岡崎方面では昔からそうして食べていたという話もある。あるいは小麦を使った醤油よりも大豆のたまりのほうが一般的だったのか。
伊勢うどん≒餅のようなもの
かけうどんのような出汁や、ざるうどんのつゆではなく、濃厚なタレを少量掛けるという食べ方は、伊勢の軽食といえば「餅」や「団子」であり、うどんもその延長線上にある食べ物という理解だったのでと推測される。桑名から伊勢までの参宮街道は餅街道とも呼ばれていたエリア。
温かいだし汁を用意する必要もないし、別の容器でつゆを用意する必要もないタレ方式は、オペレーション的にも最適解である。濃いタレなので日持ちもするし、継ぎ足すという選択肢もあっただろう。
昔の伊勢うどんは、今よりも量が少なく、軽食扱いであったそうだ。太くて短くて柔らかい伊勢のうどんは餅に似せていたのかもしれない。伊勢うどんは小麦粉で作った餅だったという仮説。
私よりも少し上の世代の伊勢の人は、子どもの頃に小麦粉で作ったすいとんのようなものを、ぜんざい(小豆の甘い汁)に入れて食べたそうだ。昔は小麦粉と米粉の境界線が曖昧だったのだ。
伊勢の人はこのタイプのうどんしか知らないで育つため、「修学旅行とかで大阪や名古屋にいったら、全然知らないうどんが出てきて驚いた」という話を、ご年配の方から今でも聞くことができる。
今よりも情報の伝達速度が遅かった江戸時代に生まれた伊勢独特の伊勢うどんは、今でも伊勢の人にとって「うどんといえば太くて柔らかくて黒いタレの軽食」なのである。
伊勢参りに来た人はうどんを食べていたのか
さて最後に、伊勢うどんが普及しだしたのが江戸中期以降だとして、では伊勢参りに来た人が伊勢うどんを食べたかという話である。
これについては、江戸後期の地図にうどん屋が多数確認できることから、茶屋で団子を食べるように、うどん屋で伊勢うどんを食べていたのだろうと想像できる。提供する側の伊勢の人が、「他所とは違うここでしか食べられない特別なうどん」であるという意識がどこまであったかは謎だが。
物語の順序を考えると、「伊勢参りで疲れた人のために消化に良い伊勢うどんが生まれた」という話ではなく、「伊勢の人が好きで食べていた柔らかくて太いうどんが、旅の間に食べる軽食に相応しかった」という感じだろうか。
その証拠に、現在の伊勢の人は病気のときや疲れたときに伊勢うどんをよく食べるけれど、普段からも当然のように食べている。特別なものではないのである。
よって今も昔も、伊勢うどんは観光客向けとして作られている料理ではなく(そういう側面も強くなっているが)、観光客にもお勧めしたい伊勢の郷土料理(地域に根付いた日常食)なのである。
「離乳食から介護食まで」、それが伊勢市民にとっての伊勢うどん。
伊勢うどんのより詳しい話はこちらをどうぞ。
以上、個人的な考察でした。