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『ドキュメンタリー〜つなぐ〜 森本千絵(アートディレクター)〜未来に向けて〜』(ディレクター)

下記、番組をディレクターとして担当させていただきました。
今回はその番組の編集後記。書いていこうと思います。

さまざまな分野のプロフェッショナルが、これまで地域でおこなってきた取組みや、その想いを紹介するドキュメンタリー番組。               朝の連続テレビドラマ小説「てっぱん」のタイトルワーク、Mr.Children「HOME」のデザイン、Official髭男dism「Universe」「Editorial」のジャケットアートワークなどを手掛けてきた日本を代表するアートディレクター・森本千絵。

#2~未来に向けて~
トップクリエイターの森本千絵と小林武史が宮城県石巻で携わってきたこと、今後のビジョンについて語る。

2022年3月10日(木)21:30~
J:COMオンデマンド、J:COMのSDGsサイトでも配信予定

MY J:COM ホームページより

いつも聞こえる『震災の足音』

自分の生まれ育った街「高知」という場所は
常に南海大地震の脅威に脅されている。

自分と地震というもののスタートは、
小学校の防災訓練の時に先生から言われた一言とその時にインプットした
共感覚的風景に付随する。
「南海大地震は今から30年以内に高い確率で起こります。」
”南海大地震”と書いてあったのか”30”という文字さえも書かれていたのか
今となっては全く記憶がないのだが、
私の頭の中には黒板に白いチョークで
この”南海大地震””30”という文字が書かれた風景が
記憶に今もこびりついている。

今いるこの街も、この街の記憶も、今の風景も
全て壊れてなくなってしまうんだということに対するショックが
とてもでかかった。
そして、この日から何をするにもどこかで地震のことが
頭から離れなくなってしまったのである。

日々流れる防災対策のニュース。
謎に体力を使った高知城への避難訓練。
多大な被害が出るとわかっていながら、なぜこの街に住み続けるのか
そして衰退していく町に、そこにできていく新しい建物に
矛盾もどこか寂しさや儚さも覚えながら
あっという間に半分の15年は超えてしまったのが昨今である。


自分の使命

高校1年生の時、東日本大震災が起こった。
ちょうどその時自分は、
吹奏楽部のアンサンブルコンテストの全国大会を控えていた。

毎日どこか狂ったレベルで練習を続けていた日々。
地下の練習場に突然先生がやってきて
「早く帰りなさい!」と言われたのが始まりだった。
何が起こったのか全く何もわからない。
1分1秒でも多く練習をしなくてはいけない状態で
正直「先生は何を言ってるんだ」と思ってしまった。
家に帰宅直後、つけたテレビに映っていた光景を今でも忘れない。

津波が何もかも飲み込んでいく姿。
その時、我に返ったのだ。私は何をしていたんだと。
何を考えていたんだと。
どこか申し訳なさでいっぱいだった。
人の命以上に大事なことはない。
テレビに映った現実に、心が追いついていけなかった。


2013年、私は大学に入学した。
その大学のプログラムのなかに南三陸町に行くものがあった。
大学では、復興支援の一環として、
南三陸に宿泊研修施設をつくっており、
毎年全国の大学や企業などの研修ツアーで利用されていた。

南三陸に初めて行ったのは、2013年の秋。
まだその時は、全然復興も追いついていなくて
一面何もなくて、地盤沈下で車で走る側にすごく水が近くて
2年経っていても整備がまだまだ追いつかないことを
目とそこに吹く風と語り部さんたちの声で
ヂクジクと感じていたように思う。

高校の時に思ったあの申し訳ない気持ちを片手に握り締めながら。
まだまだ生々しかった防災庁舎のそばで
この時はもうなくなっていた人の気配をどこか感じていた。
あの日見た光景は今も忘れない。それが約束。現実。
そして自分を動かす誓いになっていく。

私はその後も様々な学生が集まるプログラムや
学部の学生でイベントを行うプログラムなどに参加し
最低年に1回は南三陸の地を訪れた。
プログラムの記録撮影や、映画製作、イベント作り
そして復興が進んでいく南三陸を見ながら
そのなかで一つ確固たるものが自分につくられていった。

”南海大地震が来た時に、表現で力になれる人間になろう”と。


地域復興×アートとは?

自分が大学最後に学んでいたのは
地域・ジェンダー・そして時々武術。
これらを融合させながら、
地域創生をする表現とは何かということを考えていた。

5月、卒論の話を進めていくなかで
担当教授に教えてもらったのが、アートプロジェクト・芸術祭である。

この時は瀬戸内国際芸術祭の会期。
私は先生にこの芸術祭を見てこいと言われて2〜3日後、
初の一人旅をすることとなる。

この年だけで、瀬戸芸に3回。大地の芸術祭にも参加。
このあとも何度か芸術祭に乗り込むこととなる。

北川フラムさんの本を読み、
地域×アートで生み出すことのできるパワーとはなんなのかを考え、学んだ日々。
それは、
”南海大地震が来た時に、表現で力になれる人間になろう”
と誓った自分にとって大きな一歩で、
開いた道のひとつで
全く何も思い浮かばなかったところに
なにか1本ができていくのである。


今回の番組(復興支援の終わりとは)

震災から11年が経った。
私は少しでもあの頃から成長できたのだろうか。

様々な地域おこしや、復興支援を見ていて
長らく思っていたことがある。
”復興支援の終わりとはなんなのか”

大学の復興支援を見ていたせいなのかもしれないが
大きなお金を出して支援を続けるのには
いつしか限界がくる。
それはお金的なこともあるかもしれないし
人間関係もそうかもしれない。
だからといって、自立をどこでそう考えるのか
そもそも支援を通じてできたつながりを
パッと切り離せるものなのだろうか。
ずっと気になっていた。

今回の番組の舞台、宮城県石巻市。
東日本大震災で大きな被害を受けた町だ。
この町に2017年、
音楽プロデューサーの小林武史さんが実行委員長となり
『Reborn-Art Festival』が開催された。
このアート・音楽・食の総合芸術祭は
一応10年を一区切りにはじまった。

疑問はいくつかある。
そもそもなぜ現代アートのキュレーターやアートディレクターではなく
音楽家・音楽プロデューサーである
小林さんが総合芸術祭をするということになったのか。
そして、ただでさえ過疎地域でアートの力を借りて
芸術祭を住民の理解も得ながら行うのが難しいのに
震災の復興支援の一環で芸術祭を行おうと考えたのか。

そんな疑問を持ちつつ、今回の対談に挑んだ。


この先は番組の対談をぜひご覧いただきたいのだが
最終的なことを言うと
今回の番組のメインである森本千絵さんが取り組まれてこられたことが
小林さんの経験や言葉と響き合って
私のなかにある一つの答えが見えてきたのだ。

”なぜアートで震災復興をするのか”
そして
”その支援の先に目指すものとはなんなのか”

まだまだふわふわしてるものの
自分のなかにまた新たなビジョンが見えてきた。
今後もまだまだこの問いを、そして使命を追いかけていきたい。


編集後記のあとがき

ふとこれを書きながら思い出したことがある。
2016年に南三陸をゼミで訪れた時に制作した映像作品のことである。

2011年3月11日に地震・津波の被害にあった南三陸。変わりゆく町、そして変わらない自然の中に、青い傘をさした白髪の人間「私」が不気味に歩き続ける。晴れている時でも傘をさし、歩き続ける「私」。見慣れた風景と見慣れない人間が南三陸に問いかける。

映像作品『聞こえない青』 作品紹介 引用

2016年に私は、南三陸でゼミのみんなと(と言いながら、同学年はいないのだが。)映画祭を行った。そこで上映したのがこの作品。

他の作品がわりとストーリーじたてだったのにもかかわらず
それをフル無視して、挑んだ実験映画。

あんまり反響ないかなと思っていたのですが、
子どもたちはなぜか大喜び。(子どもさんに一人出演をしてもらったというのもあったかもしれませんが。)
子どもさんたちがなぜかすごく喜んでくれて、4作品あったなかでもわりと評価がよかったこの作品。あの時、地元の人たちに届いたのは一体なんだったんだろうか。

もしかしたら、あれを続けていたら
遠くないかけらのようなものがあったのかもしれないと
また新しいきっかけを思い出した2022年の3月11日である。

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