3年半ぶりに海外に行ったら、なめらかすぎた
海外へ行った。2020年1月の南極以来だから、もう3年半ぶりの海外だ。それもひとり旅である。育児についても義父母の協力を得られて、ここしかねえ…というタイミングで渡航した。
行き先はマレーシアだ。せっかくなのでシンガポールに入国して、陸路で国境を越えることにした。航空券を取ってからというもの、毎日そわそわして荷物の準備や宿の検索をしたくなったが、ぐっと我慢していた。
せっかくのひとり旅なのだ。偶然の出来事を楽しんだり、予定を柔軟に調整できるよう、ノー準備で臨みたい。当日までパスポート以外の用意はせず、宿もとらず、当日の朝起きてからリュックひとつにおさまるだけのパッキングをして、空港に向かった。早速洗剤を持ってくるのを忘れて、現地で買うことにした(衣服を2着しか持っていかないので現地で洗って何度も着る)。これだよ、これ。
旅慣れぶってはいるものの、飛行機に乗るのも随分と久しぶりだから、なんだか緊張する。久々の機内食は、こんなにうまかったっけ!?と感じるほどで、おかわりが欲しくなる。座席モニターで見る映画も、モニターに付属しているしょぼいシューティングゲームも、懐かしさで全部が愛おしかった。通路側の隣席の人がトイレに行った瞬間に、自分も立ち上がって別のトイレに行って急いで用をたし、隣人より先に戻ってくるという妙技「小便RTA」にも、無事3年半ぶりに成功することができた。
さて、今回の旅は結論としてはめちゃくちゃ楽しかったので、またPodcast『旅のラジオ』で話したり、どこかで記事にしたいと思っているが、ひとつ印象的だったのが「異様な、なめらかさ」だ。
まず日本からの出国は事前登録なしでも自動ゲートが使えて(前は入国だけじゃなかったっけ!?)、シンガポールの入国も同様だった。それにより、入国時のイベントがひとつ消滅した。
出国も入国もスタンプを押されないから、今回の旅行のために200人待ちで作った新しいパスポートは、まっさらなままだ。白紙のパスポートを従えスススス…と異国に着いてしまった。
入国審査だけではない。手元のスマホも、実になめらかである。昨年ahamoに変えたスマホは、飛行機の着陸と同時に電波を掴んだ。追加料金や別プランなしに、20GBまで使えるらしい。便利すぎる。(ついでにiPhoneは到着と同時にカメラ音が自動でオフになってびっくりした。)これによって、入国直後のイベントも消滅した。
そうやってあっさりシンガポールの空港を出たあと、そのままマレーシアに向かったのだが、「陸路国境越え」という明らかに旅情を誘う難関イベントも、同様にイージーであった。
道中の機内で適当に検索してWhatsApp(LINEみたいなやつ)で申し込んだタクシーがすでに待ち構えていて、それに乗るだけで国境を越えてしまったのだ。
タクシーの車内でAirbnbを使って宿をとったのだが、これも3年半前よりも確実にアプリ内の翻訳機能が進化していてびっくりした。なんの違和感もなく、全部日本語でやりとりができる。宿を取ったら、そのままホテルへセルフチェックインだ。さすがにチェックインはうまくいかないだろうと期待していたら、Airbnbのセルフチェックイン機能により、めちゃくちゃ簡単に終わった。
そうして実にスムーズに、ほとんど誰とも会話することなく、気がついたら宿のベッドに寝転がっていたのだった。何の準備もしてこなったのに、トラブルひとつない。何なら日本でパスポートをとるほうが苦労したかもしれない。
時間のかかる瞬間移動というか、物理的には移動しているのに心は移動していないような、不思議な感覚に陥った。
その後、マレーシアに着いてからも、配車サービスの「grab」が僕の記憶より桁違いにパワーアップしており、とにかく使いやすく、呼べば確実に5分以内に迎えに来る。乗車中はGPSで不審な動きがないか追跡したり、車内の会話が自動で録音されるなど、セキュリティ対策もばっちりだ。かっ飛ばして20分くらい乗っても500円〜1000円ほどだし、値段が事前に確定していているから安心だ。とにかく使い勝手が良い。
grabでどこへでも行けてしまうので、これじゃいかん、と試しにバスにも乗ってみたが、どの車体にもクレカのタッチ決済が普及していて、簡単に支払いができる。
移動があまりに、シームレス。故に何も起こらない。なめらかすぎて、引っ掛かりがない。
いや、便利なのはいいんだけど。安全なのは最高なんだけど。だけど!なんか!さあ!初日だけで旅のイベント6つが消滅してしまって、ちょっと拍子抜けした。
東南アジアのテクノロジーはかなり発展しており、そうでない地域の方がまだ世界には多いだろう。とはいえ時間差の問題であり、「なめら化(なめらかになること)」は不可逆な流れに思える。コロナ禍を契機とした非対面・非接触の技術革新は、旅の形を結構変えてしまったのかもしれない。
◇
『暇と退屈の倫理学』という本を読んだときに印象的だったのが、移動に関する議論だ。
ホモ・サピエンスの数百万年の歴史においては、その大部分はゆるやかな移動を続ける狩猟採集生活にあった。人類史を俯瞰すれば、定住生活に変わったのはつい最近のことなのだ。だから、本来人類は移動を続ける生活が合っていて、定住は不自然な生活なのだという。
そして更なるポイントは「移動には環境変化による刺激を伴う」ということだ。つまり定住生活を始めてしまった人類には、その刺激がなくなってしまったのだ。だからこそ、人間は部屋の中ではじっとしていられない。移動がなくなった人間は、「退屈」しているのだ….というようなことが書いてあった。
移動は摩擦を起こし、摩擦が刺激を生む。
ここ数年のテクノロジーの進化は、移動からそんな摩擦を取りさらってしまう勢いだ。そうやって単なる移動に刺激がなくなった成れの果てが、大富豪の宇宙旅行や深海探検ではないか、とも感じる。
宇宙であれ深海であれ、金だけ払って連れて行ってもらうというのは、本質的には観光名所への団体ツアーと変わらないと思っているけど、僕がもし大富豪だったら、安易に同じようなことをしてしまうかもしれない。
◇
テクノロジーで旅がどんどんなめらかになったときに、危険な冒険を求める以外に、旅のたのしみをどう求められるだろうか。なめらかさに対して、どう抗えるのか?みたいなことを、マレーシアに行ってからよく考えるようになった。
「スマホを持たずに出かける」といった、テクノロジーから距離を置くアプローチはありうるだろう。ただ一方で僕はテクノロジーが好きだから(IT企業で開発の仕事に携わってるし)、それよりはテクノロジーがある世界だからこその、旅のたのしみ方を広げたい。そもそも今の旅に欠かせないバスや電車や飛行機だって、昔は無かったテクノロジーだ。
先月、「データから昔みえた海がどこだったかを推測する」というnoteを書いたのだけど、これもそんなことを考えながら書いた。やってて素直に面白かった。記事をきっかけに静岡にすっかりハマって、記事とは関係なくその後何度も足を運んだ。
こんなふうに、テクノロジーを活用し、遠くではなく"深く"行くことで、なめらかさを打破できるのではないか、と思ったりする。テクノロジーで消滅したイベントの代わりに、テクノロジーで新しいイベントを発生させていきたい。
前述のマレーシア旅行で、2歳の子どもへの土産を買おうとしたときのことだ。おもちゃを買おうと思って、"toy"でGoogleマップを検索したら、ショッピングモールのおもちゃ屋から、屋台のようなおもちゃ屋、そしてレゴランドまでがヒットした。全部行ってみた。Googleマップがなければ、レゴランドがおもちゃ屋だという認識は生まれなかったし、行くこともなかっただろう。
レゴランドはイスラム建築が精巧に再現されていて迫力があったし、お土産にトゥクトゥクのレゴを買って帰ったら、かなり気に入られた。
あるいは宿でマップを眺めていたら、むかしサッカー日本代表が初めてW杯を決めた「ジョホールバルの歓喜」の試合が行われたスタジアムを発見した。幼稚園の頃にテレビで見ていた記憶があるので、これもふらっとgrabで行ってみた。そしたらスタジアムの管理人のおじさんに熱心に当時の解説をうけ、ピッチの中にも入れてもらえた。
grabで気軽に近距離を移動できるから、街へのもう一歩が踏み込みやすくなった。
またシンガポールではシェアサイクルがかなり普及していて、旅行者でもアプリをダウンロードすれば、そこら中に設置された自転車に気軽に乗れる。ただ降車場所が限定されているから、初心者には降りるのが難しい。アプリ上のマップには駐車場の位置が示されており、それを気にしながら走り続けたら、どこへ行こうとしても「エスプラネード」という劇場に到着してしまう羽目になった。
3度目にエスプラネードに到着した時に、もういっそなんか観てやろうと思って、劇場の中へ入った。するとちょうどジャズのコンサートが無料公開されていた。期せずして、初めてジャズのステージを聴くことができた。こういうのもテクノロジーの生み出す、新しいタイプの偶発性かもしれない。
それから、宿に連絡しようとWhatsAppにログインしたらなぜか急にアカウントを凍結されたり、grabの現在位置が間違って表示されて異なる場所へタクシーが迎えに行ってしまった時は、ちょっと途方に暮れたと同時に、「おっ」と胸が躍った。旅では、ちょっと途方に暮れるくらいの方がいい。むかし中東を長距離バスで移動していた際、バスが故障して煙を上げて、他の乗客たちと地べたで途方に暮れて過ごしたことを思い出した。
そんなふうにして、新しいテクノロジーが生まれるたびに、「バグ」が旅情の源泉になっていくのかもしれない。
……みたいなことを、暇なときにずっと考えている。他にも色々ありそうだ。
◇
2年半前、『0メートルの旅』という旅行記の本を出した。当時はコロナ禍だったこともあって、「旅の愉しみと移動距離は関係あるか?」というテーマの本になった。だが疫病が落ち着いて、むしろこれからますます、移動距離の重要性が低下していくように思える。
同書には海外だけではなく、都内や近所、家といった近場への旅行記も収録されている。その多くがテクノロジーの力を借りている。
たとえば古地図アプリを使って「江戸時代に存在した道だけを歩く」という縛りで一週間生活したところ、いつも通れる道が通れなかったり新しい道が見つかったりなど、近所の散歩が探検に変わった。
あるいはGWの混雑を避けたくて、都内でいちばん検索数が少ない駅を探したら、聞いたこともない街に降り立った。
テクノロジーが旅をなめらかにし、遠くへ行くだけでは刺激がなくなっていく。一方でテクノロジーによって、近所にも摩擦を生むことができる。そんなふうになるといい。
マレーシアに到着した翌日。洗剤を求めてスーパーを歩き回っていたころ、スマホが鳴った。日本の自宅から届いた、洗濯機の通知だった。新しく買った洗濯機にはなぜかスマホアプリとの連携機能がついていて、洗濯機の運転を開始すると、いちいち通知がくる。要らなすぎる機能なので逆に使っていたのだが、この通知が届いたということは、ちょうど家で奥さんが洗濯機を回し始めたのだろう。僕がマレーシアで洗剤を探していたときに、偶然の一致である。
そしてそのときになぜか、はじめて「あ、いま異国にいるんだった」という実感を覚えたのだ。普段最もどうでもいい通知が、まるで電報を受け取ったような新鮮さを帯びていたからだと思う。どれだけ世界がなめらかになったとしても、こんな些細な引っ掛かりが、ひょいと顔を出したりする。だから以前よりもっと、目を凝らしたい。
結局スーパーでは洗剤は見つからなくて、代わりにうまそうな缶詰をたくさん買った。そしたら最終日に、出国審査で強面の審査官に全部没収された。この缶詰は現地の日本人がよく買って帰ると言っていたはずだが、審査官によるのだろうか。
缶詰は、まだなめらかじゃないみたいだ。